朝霧

  ■ 佐智子のヘルパー日記より

1.2.3.4.5.6.



「えーと、ブロック塀を左に曲がって一番目の道を右に曲がる・・・」

佐智子は左手に持っていた地図を放り出すと運転していた車を道の端に止めた。
目の前の景色は見渡す限りの畑で、どこにも道標など無い。
この道はさっき来たような気がする。時計を見ると3時10分前だった。
携帯を手にとると
「もしもし、山本ですけど、今日3時から入る加藤さんの家がわからないんですよ」
電話の向こうでは年配の事務員が
「地図渡しませんでした?」と、眠そうな声で答える。
その地図がわからないのよ、とイライラする心を抑えて
「迷っちゃったみたいで・・・」
しおらしく佐智子は言う。
山本佐智子は緑町の社会福祉協議会で1年前からホームヘルパーをしていた。
45歳の佐智子に正職員の口など回ってくるわけもなく、1年たった今でも臨時で、
同じ臨時ヘルパーの仲間に言わせると「まあ、日雇いみたいなものね」という立場だった。
当然、発言力も無く、与えられた仕事をただこなしている毎日だった。
「えーと、一番目の道を右に曲がるんですよね」
携帯を耳に当てながらノロノロ車を走らせる。
「曲がってから一番はじめのお宅ですよ」
やっと眠気が覚めたらしい事務員の甲高い声が耳に響く。
一番目?あ、ここだ。
荒れはてた庭に隠れて倉庫のような小さい家が建っていた。
さっき通ったはずなのに、木に覆われていて見逃していたのだ。
「あ、わかりました。ありがとうございました。これから入ります」
商売柄すっかり身についてしまった愛想の良い声で電話を切ると、庭の中に車を乗り入れた。
3時3分前、セーフだ。
茶色のペンキが剥げて見るからに古い家だった。
たてつけの悪いサッシをやっと開けて玄関に入る。
さあ、始めるぞ。自分に気合を入れて家の中に声をかけた。
「こんにちは。社協から参りました。山本です」
「加藤泰司 80歳 独居老人 息子夫婦が隣の家に住んでいるが、共働きなので、朝晩、顔を出して面倒を見ている。
お酒が好きで一人で買いに行き、昼間から飲んでいる」
主任から聞いた知識を思い出しながら
「お邪魔しまーす」どんどん家の中に上がりこむ。
年寄りは耳が遠いので返事の無いときが多い。
「加藤さ~ん。こんにちは~」
大きな声で呼びかけながら部屋を覗くとコタツに男性が横になっていた。
部屋の中が酒臭い。
「加藤さん」
声をかけると赤く濁った目をあけた。
「こんにちは。社協から来ました、山本です」
何回目かの挨拶をすると加藤はのろのろとコタツから起きだした。
「おお。こんにちは」と、案外機嫌が良い。
先輩ヘルパーが何度か訪問しているので、初めての顔も不審がる様子もない。
もっとも、このピンクのエプロンは特徴があって「わたしはヘルパーです」と、言っているようなものだわ、と佐智子はつぶやく。
部屋の中を見ると、脱ぎ捨てた下着があちこちに散らばっているし、新聞紙やコップや、お皿が畳の上に投げ捨てたように置いてある。
佐智子はそれらを見ないふりして、加藤の側に座った。
「加藤さん、今日は何からしますか?」
援助内容は居室の掃除と夕飯作りと決まっているのだが、始めての家ではまず、信頼作りが必要で、とにかく話から始める。
一日、一人でいることの多い年寄りはとにかく話したいのだ。
「まあ、そんなに急ぐことはないべ。お茶でも飲みな」
加藤はよろよろとコタツから起き上がると、台所に入っていく。
そっと、のぞき見た台所の流しには、茶碗や鍋が洗わないまま積み上げてあった。
茶渋で汚れたお茶碗で入れてくれたお茶を佐智子は平気な顔をして飲んだ。
ヘルパーを始めた頃は汚れたお茶碗でお茶を飲んだり、むき出しのまま手渡しでくれるお菓子を食べる事が出来ず困ったものだ。
まして規則では利用者の家でお茶を飲むことは禁止されている。
でも、田舎の年寄りにそれを理解してもらうのは難しかった。
1年たった今では、平気で「ああ、おいしい」とお茶を飲んでいる。
「加藤さん、庭の菊がきれいね」
窓の外では菊の花が見事に咲き誇っていた。
加藤から見えないように腕時計を見ながら、佐智子はおっとりと笑う。
菊の花の下では汚れた猫がのんびり昼寝をしていた。

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「さて、そろそろお掃除しましょうね」
そっと腕時計を見ると来た時から20分以上過ぎていた。 箪笥の上にもテレビの上にも時計が置いてあるが、そのどれもが違う時を刻んでいた。
ここでの時間はゆっくり進んでいるのだろう。
佐智子はもう一度家中を見回した。
加藤が寝ていたコタツのある居間。その居間と襖をへだてて、布団がだらしなく畳んである寝室らしき部屋。そして廊下を挟んだ向こう側に小さな台所とトイレと風呂場がある。
それだけの小さな家だった。
でも、その前に夕飯の材料を確かめないと・・・
「加藤さん、夕飯は何をつくるの?」
酒ビンや鍋、釜が転がっている台所に歩き出しながら加藤を振り向くと、加藤はコップに酒を注いでいる。かなり酔っているらしくコップから酒がこぼれて膝を濡らした。
「あらあら」台所から布巾とも雑巾ともつかぬ汚れたタオルを持ってきて膝を拭いていると、酒に混じってプンと尿の匂いがした。
「失禁している。どうしよう?」
80歳と佐智子の父親以上の年齢でも、男は男だ。
先輩ヘルパーで、介護している最中に抱きしめられたという例も聞いており、加藤のズボンを替えるのをためらった。
まして初めての訪問では、信頼関係ができていなかった。ズボンの匂いを指摘して相手のプライドを傷つけるのは避けたい。心を閉ざされるのが一番困るのだ。
佐智子はさりげなくズボンの尻のあたりを触ってみて濡れていないのを確かめた。
「今日は黙っていよう」そう決めて佐智子は小さくため息をついた。
また酒を飲んでいる加藤をそのままにしておいて、佐智子はさっさと台所に立った。
「加藤さん冷蔵庫開けますよ」
大きな声で呼びかけながら冷蔵庫を開ける。
冷蔵庫の中には豚肉と卵しか入ってなかった。流しの周りを見ると、大根とキャベツが転がっている。
「加藤さん、今日は何をつくりますか?」
酒の入ったコップを手にした加藤は眠そうな顔で振り向いた。
「何でもいいや。あるもので作ってくれや」面倒くさそうな声で答えると、また酒ビンをとりあげた。
佐智子は眉をひそめたが、何も言わずに台所に戻った。
「今日は大根でも煮るか・・」散らかった流しを前に佐智子は腕まくりをした。
「今日は掃除まで出来るかな?」
晩秋のおっとりとした日差しは夕方が近いことを知らせていた。
急いで、大根を煮て、キャベツと豚肉を炒めると、佐智子は掃除にかかった。
テレビを見ながら飲んでいる加藤をほっておいて、どんどん掃除機をかける。
脱ぎ捨てられた衣類を簡単にたたむと部屋の隅に置く。洗濯してあるのかいないのか、下着は黄色く汚れていた。鼻をかんだのか、丸めたティッシュが部屋のあちこちに投げ捨ててある。
ヘルパー1年目にしてこういう風景にも平然としていられるようになった。
ある程度信頼関係が出来るまでは、口に出さない。見てみぬふりをする。1年間で佐智子が学んだ教訓だった。
掃除が済んで食事も用意できると、うつらうつら舟を漕ぎ始めた加藤に声をかけた。
「加藤さん、風邪ひくよ。ご飯できているからちゃんと食べてね」
初めて入る家は要領がわからず、時間をオーバーしてしまうことが多い。
案の定今日も時間を過ぎていた。
いろいろな事情があるのだろうけど、薄汚れた加藤を見ていると、胸が痛かった。
佐智子は思い入れが強いほうで、家に帰ってからも引きずることがあった。
淡々と割り切っている先輩ヘルパーを見ていると、自分はこの仕事に向いていないのではないかと思うことがある。
それでも、仕事が終わり、外に出ると開放感で気持ちが伸び伸びした。
家から見えないのを確かめると佐智子は大きく伸びをした。
来たときには気づかなかった菊の花の匂いが心に染みた。

3

スーパーで急いで買い物をすませて外へ出ると、あたりはすっかり暗くなっていた。

育ち盛りの子供達の食欲は宇宙のブラックホールのようで、安くて量の多い食材を選ぶことが最近の買い物の課題となっていた。
腕にずっしりと重い買い物袋を提げて車にたどり着くと、どっと疲れがでる。
たった2時間の家事援助でも、初めての訪問先はやはり気を使う。
これで、帰って休めればどんなにいいか。でも、家ではお腹をすかせた子供達が待っている。
気を取り直して、車のエンジンをかけようとすると、携帯のメールの着信音がした。
同じ臨時ヘルパーの清美だった。
「ねえ、聞いて、聞いて」いつも、突然こんな文で始まる清美のメールに思わず微笑んだ。
「今日ね、主任さんから電話があって、明日の仕事がキャンセルになったの。その理由が正職員のヘルパーの手が空いてしまうから、わたしの仕事を回すのですって。(うちのヘルパーを遊ばせるわけにはいきませんから)だって! どこまで馬鹿にされればいいの?」
佐智子はため息をついた。今に始まったわけではない。
「ほんとだよ。わたしらは(うちのヘルパー)じゃ、ないってことか。こんなに一生懸命働いているのに。めげるわ」
いつも、いつもこうやって臨時はいらなくなるとゴミのように扱われる。
でも、こうやって愚痴をこぼせる相手がいるだけで、救われていた。
メールを返信すると、車のエンジンをかけた。ライトをつけないと、心もとないほど秋の空は暗くなっていた。
「ただいま」
佐智子は大きな声で家の中に声をかけると、買い物袋を腕にぶら下げたまま、玄関に脱ぎ散らかされた靴を揃えた。
家の中から返事はなかった。
「誰もいないの?」
声をかけながら居間を覗くと、夫の秀雄がテレビを見ながらビールを飲んでいた。
「何?もう飲んでいるの?」
車で30分ほどの距離にある食品会社に勤めている秀雄だが、このところの不況で残業がなくなり、帰宅時間が早い。
趣味もない人なので、帰るとテレビを見ながら飲み始めるという毎日だった。
早く飲み始めるとどうしても量も増えるし、体にも良くないと思う。
でも、心に何か屈託があるらしい秀雄に対して何も言えない佐智子だった。
案の定、不機嫌そうに返事もしない秀雄をほっておいて、佐智子はさっさと台所に行った。
買い物袋を開けると、キャベツと豚肉を出す。
今日は、さっき訪問した加藤と同じ野菜炒めにしようと思う。
それでも、キャベツと豚肉だけでは寂しいので、舞茸や、ピーマンや、人参も入れよう。
夫の秀雄には特売で買ってきたお刺身をつけて、子供達には、以前作って冷凍しておいたハンバーグにしよう。
一人でブツブツと言いながら野菜を切っていると、夫の秀雄が台所に入ってきた。
冷蔵庫を開けてビールを出している。
「まだ飲むの?もうすぐ食事だし、止めたら?」
思わず言ってしまった佐智子に対して、振り向いた秀雄の目が怒っていた。
「亭主が帰ってきても飯も出来てないで。偉そうなこというな」
佐智子は相手にしないで流しに向かった。こういう時に言い返せば喧嘩になるのはわかっていた。
以前はこんな言い方をする人ではなかったのに、どうしたのだろう。
職場で何かあったのだろうか。聞きたいと思いながらも、タイミングを計りかねていた。 今度休みの日にじっくり聞いてみよう。
野菜炒めを大皿に盛り、焼きあがったハンバーグにトマトを添えると、2階の子供達を大声で呼んだ。
「ご飯だよ~降りておいで」
夫婦の気まずい時間を突き破るように、2階から元気な足音が駆け下りてきた。
「げっ。ピーマンだ」中学生の明が野菜炒めの中のピーマンを見て叫んだ。
高校生の実は黙ってもう食べ始めている。
「何よ、みんな、お帰りなさいくらい言ってよ」
これだから男の子は・・・佐智子は苦笑しながら食卓に座った。
秀雄も黙って食卓に座り、テレビの音だけが賑やかな食事が始まった。



4


食事が終わると、子どもたちはさっさと2階の自室に上がって行った。

小さい頃は、うるさいくらいにまとわりついて、うんざりすることもあったのに、今は食事か、小遣いが欲しいときにしか側にこない。
2階から漏れ聞こえてくる音楽を聴きながら、佐智子は寂しかった。
「現金なものだわ、こういう日が来るのを待っていたのに」
苦笑しながら、食器を洗う。
明日のお米を研いでしまうと、ようやく主婦の仕事が終わった。
コーヒーを入れて居間に行くと、秀雄は横になってテレビを見ていた。
「あなた、コーヒーここに置くわよ」
夫の側にカップを置くと佐智子も自分のカップを取り上げた。
濃い目に入れたコーヒーが喉を伝わり、佐智子はほっとする。
さて、ヘルパーの日報を書いてしまわねば・・・
ノートを取り出し「加藤泰司 家事援助・・」と書き出すと昼間の泰司が目に浮かんだ。
今頃、ちゃんと布団に入って寝ているだろうか・・
ズボン取り替えたかな・・
横では、秀雄がいつの間にか鼾をかいていた。
側にあった毛布をかけてあげて、佐智子はまた日報を書き続ける。
「夕飯の準備、居室、寝室の掃除」
失禁のことは書こうかどうしようか・・・
暫く、考えて書くのは辞めた。あまり問題にしないほうがいいような気がした。
何度か続いたら報告しよう。
そう決めると、佐智子はノートを閉じた。今日、何度目かのため息がでた。
晩秋の夜は冷え込み、虫の声が遠くで小さく聞こえた。

どこかで、犬の鳴き声がした。犬の声はだんだん大きくなる。
佐智子は枕元の時計を見た。午前6時。隣のご主人が犬の散歩に出かけるのだ。
毎日繰り返されるこの散歩のおかげで、佐智子は目覚まし時計がいらなかった。 ぼうっとした頭で起き上がる。
台所に入るとタイマーで炊き上がったご飯の良い匂いがした。
朝食と高校生の実の弁当を同時につくると、2階に声をかける。
「実、明、起きなさい」
この朝の発声で佐智子の目も完全に覚めた。
隣の散歩と同じで毎日繰り返される光景であった。
「佐智子」寝室から出てきた秀雄が声をかけた。
「今日の夜、話があるんだ。家に居てほしい」
佐智子は壁にかかったカレンダーを見た。
今日は11時から1件の仕事が入っているだけで、他に予定はない。
「居るけど、いったい何なの?」
「夜に話す」秀雄はそれだけ言うと新聞を広げた。
何なのだろう・・・佐智子は不安だった。
最近の秀雄の様子を見ていると良い話とは思えない。
子供達も食事の手を止めて秀雄を見つめていた。
流しの前に立っている佐智子の側に実が来てそっと囁いた。
「親父、どうしたの?最近変だよ」
明もこっちを見ている。
佐智子は驚いた。子供達も気がついていたんだ。
「大丈夫よ。ほら遅刻するわよ」時計の針は登校時間を指していた。
仕事に出かける車の中でも佐智子はぼんやり考えていた。
「いったい、何だろう・・」
訪問先の家に着くと、やっと、気持ちが切り替わる。
玄関先にみかんの木がある。小さな実がオレンジ色に光っていた。
そのオレンジの明るさに誘われて、佐智子は微笑んだ。
「こんにちは」微笑んだまま、玄関に入る。
部屋の中には、ベッドがあり、そこに中年の女性が横になっていた。
「小川さん、こんにちは」
小川里美は55歳だった。1年前に脳溢血で左半身不随になっている。
夫の良行と、25歳の息子の3人で暮らしていた。
二人は平日の昼間は仕事に出かけているので、一日に何度かヘルパーが顔を出してトイレや身の回りの世話をしている。
「こんにちは」佐智子の微笑みに誘われるように里美も笑った。
3ヶ月前に始めて訪問した時には、まだ自分の病気を認められずに、塞ぎがちだった。
その里美の居室は陽あたりが良く好きな観葉植物がたくさん置いてある。
男所帯では観葉植物までには手が回らず、いつ来ても鉢の土はカラカラだった。
佐智子は時々水を与え、葉を拭いて、やがて葉が艶々と輝く頃には、里美の顔に笑いが浮かぶようになった。
「みんなが、きれいだねって言ってくれるのよ」鉢を指差して里美が笑う。
里美と心が通じたようでうれしかった。
こういう言葉が佐智子の喜びだった。
これだからヘルパーは辞められない。佐智子は心の中で呟いた。

5

里美の部屋の壁にはたくさんの写真が貼り付けてあった。

どれも、まだ里美が体に不自由がない頃の写真だった。社交ダンスが趣味だったという里美が真っ赤なドレスで笑っている。また、どこかの温泉場だろうか、浴衣を着て女友達と肩を並べて写っている写真もあった。そのどれもが生き生きと笑っていた。
今の里美はたまにしか笑わなかった。やっと親しくなってきた最近でも、声をだして笑うことはなかった。
無理もなかった。専門職のヘルパーとは言え、同年輩の女性にトイレの世話までしてもらうのはどんなに辛いだろう。自分がその立場だったらと思うと、里美に同情せずにはいられなかった。
「でも、小川さんは同情なんてされたくないだろう。ましてわたしはこれで報酬をもらっている専門職なのよ。適切な介護が出来るようにしなくては・・」
トイレで里美の下着を穿かせながら、佐智子は自分を戒めた。
それでも、居室の掃除をしてしまい、昼食を食べさせてしまうと佐智子は里美の手をとった。指のマニキュアが剥げかかっていた。
里美はおしゃれだった。ある日、瞼がキラキラと光っているので、驚いて見つめていると 「ラメをつけたの。100円ショップで買ったのよ」と笑っていたこともあった。
リハビリに出かけるときなどは、化粧もした。
「小川さん、マニキュアつけなおそうか」彼女の女としての自覚を応援したかった。
テーブルの上には様々な色のマニキュアが並んでいた。そのどれもが驚くほど派手だった。
思い切り派手なのをつけてあげたい。佐智子はラメ入りの赤いマニキュアを手にとった。
「これがいいかな?」ちょっと自分の指につけてみた。
ラメ入りの赤いマニキュアをした指は窓からの日差しにキラキラと光った。
指を陽にかざして、うれしそうに笑う佐智子に思わず里美が噴出した。
二人は顔を見合して笑ってしまった。
初めて里美の笑い声を聞いた。佐智子はうれしかった。
里美の家を出て車を走らせながらも、佐智子はまだ微笑んでいた。
あれから、里美のマニキュアを塗りながら、二人で若い娘のように笑いあった。
どちらかと言うと不器用な佐智子はうまくマニキュアが塗れずに、指からはみ出してしまう。その苦労している様子がおかしいと里美は笑った。佐智子も笑った。
その楽しさがまだ残っていた。
でも、家が近づくにつれて佐智子の心は沈んできた。
昨晩の夫の話が気になる。なんだって言うんだろう・・・
雨が降り出すのか、空が暗くなり、佐智子は車のスピードをあげた。
家に帰り着く頃には空がすっかり曇り、今にも雨が降り出しそうだった。
佐智子は軒下に干してあった洗濯物を取り込むと、鍵をあけて家に入った。
乾いていた洗濯物を居間に置くと、佐智子はまずコーヒーを入れた。
キッチンの椅子に座って、香りたかいコーヒーをすするとやっとほっとした。
外からは雨音が聞こえてきた。今頃里美は一人で何をしているのだろう。
雨音を聞きながら、佐智子は暫く椅子から立ち上がれなかった。
「ただいま~」
ぼうっとしていた佐智子は明の声で我にかえった。
「途中で雨に降られちゃってさ」
タオルで頭を拭きながら、明はもう冷蔵庫に首を突っ込んでいる。
牛乳をパックのままで飲み始めた。
「明、ちゃんとコップで飲んでよね」
文句を言う佐智子に片目をつぶって、明は戸棚からドーナツを出して、食べている。
あっという間に3個目を食べる明の食欲に圧倒されて、佐智子は黙ってしまった。
この若さは何物にも代えがたい。見ているだけで希望がわいてきそうだ。
佐智子はやっと椅子から立ち上がった。
今日の夕飯はいつもにも増して静かだった。
テレビが賑やかに叫んでいたが、佐智子も子供達も、どことなく落ち着かなかった。
いったい秀雄は何を言うのだろう・・・
子供達が見ない振りをしながら、秀雄のことをそっと見ているのを佐智子は感じていた。
その秀雄は知らん顔をしていつもの通りにビールを飲み、天ぷらを食べている。
そして食べ終わると、さっさと居間に戻ってしまった。
残った3人はなんとなく顔を見合した。
それでも子供達は食事が終わると黙って2階に上がっていった。
食事の後片付けをしてしまうと佐智子はまたコーヒーを入れて、居間を覗いた。
秀雄はテレビを見ていた。

6


「あなた、コーヒー」声をかけて佐智子は側に座った。

暫く二人とも黙っていた。いつの間にか雨が止んで虫の音が聞こえていた。
カップの底のコーヒーかすが乾いて、白いカップの底に不思議な模様を描いている。
「佐智子」秀雄が絞りだしたような擦れた声をだした。
佐智子は黙って秀雄を見つめた。
「佐智子」また呼ぶ。
「はい」佐智子の声も緊張した。
「ずっと考えていたのだけど、会社辞めようと思うんだ」
やっぱり・・・予想したとおりの言葉だった。
仕事が面白くないのはなんとなく気づいていた。
「今、希望退職者を募っているんだ。退職金も上積みされるらしい」
辛いことを口に出してほっとしたのか、顔が明るくなった。
「今の仕事は続けられないの?」
子供達もこれからますます教育費がかかる。この不況でおいそれと再就職が出来るとは考えられない。
「この間、斉藤さんが転勤になっただろう」
斉藤さんとは、夫の上司で、夫の良き理解者だったが、2ヶ月前に転勤になったのだ。
「あれから、本社から別の上司が来て、仕事がやりにくくなった」
リストラされる人が急に増えたと秀雄は顔を歪めた。
また暫く沈黙が続いた。2階も今日は静かだ。
「駅前のラーメン屋、知っているだろ?」
「ラーメン屋ってあの北海軒?」
「うん。あそこの親父が病気なんだ。店を辞めるらしい」
北海軒は、秀雄の会社が麺を卸していて、佐智子も何度か連れて行ってもらった。
秀雄は若い頃に中華料理屋に勤めていたこともあって、調理師の免許も持っていた。
北海軒の主人とは気が合ったのか、調理場にも顔を出して特に親しくしていたようだった。
「あそこを譲ってもらおうと思っている」
佐智子は驚いて、秀雄を見つめた。
「譲ってもらうって、あなた、あの店をやるつもりなの?」
「中はそう改造しなくてもいいし、調理器具はそのまま譲ってくれる」
「え?もうそこまで話は進んでいるの?」
驚く佐智子に構わず、秀雄は続ける。
「人は雇わないで、俺と佐智子と二人でやろうと思っている」
興奮したように話続ける秀雄を、佐智子はあっけにとられて見つめていた。
「ちょっと、待ってよ。そんなに急に。それにわたしにだって仕事があるじゃない」
冗談じゃないわ。そんなこと勝手に決めて・・・
「仕事ってヘルパーかい?そんなものいったい一月でいくらになるんだ?」
「そりゃ、金額は少ないけど、やっと慣れてきたのよ」
確かに月に4,5万にしかならないので、佐智子は怯む。
秀雄は馬鹿にしたように笑った。
「生活がかかっているんだ。ヘルパーで食べていけるのか?それにあそこは場所も良い。今がチャンスなんだよ」
理詰めで迫ってくる秀雄に何も言えず、佐智子は黙ってしまった。
言うだけ言ってしまうと、秀雄は気持ちが楽になったのか、布団に入り、すぐに軽い寝息をたてた。 佐智子は部屋の電気を暗くした。
外の道路を走りぬける車のライトがカーテン越しに部屋を明るくして、また消える。
秀雄の考えがあまりに安易すぎるようで不安だった。長年サラリーマンだった秀雄に商売なんて出来るのだろうか?
それにやっと慣れてきたヘルパーの仕事にも愛着があった。
確かに非常勤だし、収入的には微々たるものだ。
でも・・・・暗い天井を見つめる佐智子の脳裏に一人暮らしの加藤や、ベッドに横たわる里美や、たくさんの関わりを持った人たちの顔が浮かんだ。
体や心が不自由だったり、経済的にも苦しかったり、様々な問題を抱えている人たちだが、その誰もが佐智子を必要としてくれ、また佐智子も仕事でその人達と関わることによって、癒される自分を感じていた。
人間は弱い生き物なのだ。一人では生きていけない。それを誰よりも知っているのは、お年寄りであり、体と心の不自由な人たちなのだ。彼等たちから出る、苦しみと優しさのオーラを受け止めることの難しさを、仕事を重ねるごとに感じていた。

それでも、この仕事が大好きな佐智子なのであった。   つづく 


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