早春の家

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磨きこまれて鈍く光っている廊下は、同じように磨かれすぎて、細く磨り減っているように見える玄関の格子戸まで長く続いている。いつもの癖で決してスリッパの音をさせない歩き方で、早乙女澄江はその長い廊下を落ちつきなく行ったり来たりしていた。ガラス戸の向うに見える良く手入れされた庭は、先日植木屋が来たばかりで、枝を思いきりよく刈られた木々が寒々と見えた。

 「本当は、まだ植木屋を頼むはずじゃなかったのに、予定外の出費だわ」と、澄江はこめかみに軽く手をあてた。亡くなった澄江の夫は、大学教授だった。早乙女家は家柄も古く、地元ではちょっと知られた名家であった。でも学者肌だった夫は財産を残さず、夫亡き後、澄江は旧家としてのプライドを保つのに苦心してきたのであった。 1人息子の誠が大学を出て就職すると、暮らしは少し楽になったものの、日々切り詰めた生活は変わらなかった。それでもプライドの高さは相当なもので、親戚のつきあいを度々断るのも、交際費が捻出できないからでも、着物を新調できないからでもなく、あくまでも「体調がすぐれないから」であった。その澄江が、植木屋を頼み、デパートまででかけて老舗の和菓子を求めてきたのも、今日の来客のためであった。

 「それでも...」と、今日何度も口にした言葉を、澄江はまたつぶやいていた。「早乙女家も今さらどうのこうの言えないけれど、もう少し良い家の娘がいなかったのかしらね」今日、誠が連れてくる美香という娘は、小さな町工場の経営者の娘であった。経営者といっても、妻と二人きりで朝から夜遅くまで立ち働いているような工場だ、という事で澄江はがっかりしてしまった。「そんな娘じゃ、花嫁修業もしていないに違いない。行儀作法はどうだろう、早乙女家を守るために、しっかり躾なくては」 会ったこともない娘に対して、すっかり姑になっている澄江であった。

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駅からの道は恋人の誠と二人、笑ったり、少しすねたりして、そんなたわいない恋人の戯れは、これから誠の家を訪ねるのだという緊張感を和らげてくれた。

それでも誠の家の前まで来ると、相田美香の足は思わず止まった。
古いけれど大きくてしっかりした作りの門は美香を圧倒し、その向うに見える庭は、冬枯れの季節にしても、あまりにもさっぱりと冷たく整っていた。
 今まで、美香の家を度々訪ねてきていた誠に、誠の家の様子をそれとなく聞いていた美香の母、京子は、
「あんた、苦労するよ」と、美香に言ったことがあった。
それでも、幸福ではちきれそうになっている二人をみると、それ以上は何も言わなかった。
そしてため息をついた。
 その母が手入れしている猫の額ほどの庭は、花だか雑草だかわからないような植物でいっぱいで、母が餌を与えている野良猫達が、始終出入りしていた。


 「ほら、何をぼーっとしているんだい?家にはいるよ」
誠に手をひかれて門をくぐると、枝振りの良い松の木の向うに、誠の祖父が建てたという家が見えた。
大変な道楽者だったという祖父の建てた家は、和風ながらどこか粋で、近代的な建物と比べても古臭くなく、美香はその祖父に親しみを覚えた。
 「ただいま」
玄関の敷居をまたぎながら、誠は大きな声で中に声をかけると、美香を玄関の中に引っ張り込んだ。
 美香の家の居間ほどもある玄関は、覗きこむと顔が写るほど良く磨きこんだ廊下がずーっと奥まで続いており、さりげなく置いてある備前の大きな壷に、蕾のついている梅の枝が挿してあった。
 「あら、お帰りなさい」
廊下の奥から誠の母が小走りに出てきて、玄関の上がりかまちに正座した。
 「いらっしゃいませ、誠の母でございます」
深々とお辞儀をされて、美香はすっかりあがってしまった。
そして誠と手をつないだままなのに気づくと、真っ赤になってしまった。



 シュン、シュンと釜の湯がたぎる茶室で、誠と美香はさっきから神妙に座っていた。
障子越しの冬の日が、姿勢よく茶を点てている澄江をゆったりと照らしてした。
やがて、誠がもぞもぞと動き出し、
「ちょっと失礼」
と、ニヤッとして胡座をかいた。
きれいに泡だったお茶をぐっと飲み干し、口元についた緑を大げさな動作で手のひらで拭う誠を見て、美香が笑いだした。
「ほんとに、あんたって子は」
 美香のためにもう一杯、お茶をたてながら、澄江は目の隅で誠を睨み、苦笑した。
小さい頃から母の茶の湯の練習の相手をさせられ、生まじめに、正座を崩す事のない誠なのに、きっと美香さんが緊張しないように気を使っているのね、と澄江は胸の奥が熱くなった。
そして美香の作法を試すような真似をして悪かったかしら、と後悔した。
これからの誠はずっと母親と美香の間に入って苦労していくのだ、と思うと美香さんと仲良くしていかねば、と改めて思う澄江である。
それでも早乙女家の嫁として恥ずかしくないように躾ねば、という思いは捨てきれないでいた。

 澄江が目の前に置いてくれた茶わんを持つと美香は姿勢を正し、茶碗を少し回し、茶を飲んだ。そして茶碗の正面を澄江の方へ回し、返した。
ぎこちないけれど、落ち着いた美香の動きに澄江は思いがけないように目を見張り、美香は、やったね、とそっとこぶしを握った。
 実は美香は、高校時代の三年間、茶道部に所属していた。
和菓子が食べられる、という理由だけで、ダラダラと三年間も続けていたが、案外身についていたものだ、と我ながら感心してしまった。
 指導してくれた先生は、ギスギスにやせた女教師で作法にも厳しく、怒るとキラッと眼鏡が光り、女生徒達はその度に、和菓子を喉に詰まらせたものだった。
細くとがった鼻をしていて、密かに魔女と呼んでいたものだったが、こんなところで役に立つなんて、先生、ごめん、と美香は心の中で手を合わせた。
でも基本的にはお茶なんて楽しく飲めればいいさ、と昔も今も思っているし、澄江が一生懸命乾拭きしている、床の間や床柱の鈍い光にも、美香のためにと、とっておきの名のある作家の茶碗を澄江が使ってくれたのにも、とんと、思いがいかない美香であった。
まして、この古びた早乙女家の伝統を守っていこう、などという気持ちなど、さらさらない美香だった。

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 買い物からの帰り道、冬とは思えないほどの暖かい陽射しに誘われて、澄江は近所にある小さな公園に寄ってみた。
葉を落とした木々の下の小道を買い物篭を持った腕を後ろで組んで、のんびりと歩いている澄江は、親戚や近所の人には決して見せない少女のような優しい顔をしていた。
 澄江が嫁いできた頃の早乙女家は姑が口癖のように言っていた「見渡す限り早乙女家の土地」だった頃の財産は、道楽者でお人よしの舅が人に騙されて、ほとんど残っていなかった。
 それでも舅、姑とあいついで亡くなり、学問一筋で金銭感覚に疎い夫が亡くなるまでは、それなりに名家として尊敬もされ、体面も守ってきた早乙女家であった。
 その夫が亡くなったあとの親戚や近所の手のひらを返したような冷たさと、今まで通りの「金をださせるつきあい」をもとめる仕業は、今思い出しても胸が痛くなるほどである。
幼い誠を抱きしめて、この子にはこんな辛い思いはさせない、自由に生きさせようと思いつめていたことも何時の間にか忘れるほど、長い年月肩肘はって生きてきた澄江であった。

 ちょっとした高台にある公園は見通しがよく、遠くのほうに高層ビル群が霞んでみえた。
晴れた日は富士山も見える、ということだったが澄江はまだ一度も見た事がなかった。
古い木のベンチに座ると、澄江はきのうの美香の訪問を思い返した。
 思っていたよりもずっと素直で落ちついた娘だった。
家柄があまりよくないのは仕方が無いだろう。もうそんな時代じゃないんだし。
それに今の早乙女家ではそんな事も言えない。
 結婚式はどうしたらいいのだろう。誠はじみ婚にすると言っているが、そうもいくまい。
口うるさい、それでも決して助けてくれることの無い、親戚の何人かの顔を思い浮かべ澄江はため息をついた。

 ぼうっとして考えこんでいた澄江が、はっと我に返ったのは、ベンチの隣に誰かが座ったからだった。
背広を着たその男は隣に澄江が座っているのにも構わず、持っていたコンビニの袋からパンをだして食べ始めた。そして思いついたようにネクタイを緩めた。
いつも慎み深い澄江が何となくその男を見つめてしまったのは、40過ぎ位だろうか、仕立ての良い背広を着たその男がどこか思いつめているように見えたからだった。

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 春が近いことを思わせる穏やかな日々が続き、高台にある公園の桜の木も枝先がぼんやりと白くなり、蕾のふくらみを感じさせた。
その淡い白さは開花前のほんのひとときだけの、春を待ちわびている者だけが気づく美しさで、澄江は毎年この時期を楽しみにしていた。
 その桜並木をぬけると、ちょっと人目につきにくい所にそのベンチはあった。
膝の上にのせた鞄に肘をつき、ぼんやりと遠くの景色をみていた男は、澄江が近づくのに気づくとうれしそうに笑い、澄江が座りやすいように体をずらしてくれた。
「こんにちは」
澄江も男に笑いかけると、となりにそっと座った。
 暖かい太陽を受けてただ黙って遠くのビルを見ているだけの二人だったが、澄江はこうしている事に肩の力が抜けたような不思議な安らぎを感じていた。
男は安田と名乗っただけで身の上は語らなかったが、よれた背広の襟元や袖口から見えるシャツの薄汚れは、彼が幸福ではない事を感じさせた。
澄江の方も世間しらずの若い娘ではなし、見知らぬ男に名前を教える気にもなれず、また安田も聞こうとはしなかった。
ただ二人は春を待つ木々の色や風の音が、同じように見え、同じように聞こえることを知った。
 それは二人にとって新鮮な驚きであった。
夫亡き後、20年近くも忘れていた胸のときめきを感じ、
「何もやましい事はないのだから」
と自分に言い聞かせ、また多分10歳以上歳が離れているだろう、安田に対して胸がときめくなどと認めようとはしない澄江だった。

 金曜日の夜、いつものように誠とレストランで食事をしていて、きょうの誠がどことなく沈んでいるのを美香は感じた。
「ねぇ、何かあった?」
問いかける美香にたいして一度は「いや、べつに」
と首をふった誠だったが、思いなおしたようにナイフとフォークを置いて
「実はさ、おふくろに恋人がいるらしいんだ」
と話し始めた。
「え?」
美香は思わず絶句してしまった。
誠の母と恋愛は一番遠いもののように思えたからだった。



 高層ビルにあるレストランでコーヒーカップを目の前に置いて、二人の間に気まずい沈黙が続いていた。
窓の外ではビルからもれる灯りが星のように光り、渋滞した車の列が天の川のようにゆったりと流れていた。
「お母さんに恋人?」
やっと美香が口を開く。
「うん、いるらしいんだよ。それも若いらしい」
あのお母さんに恋人がいたというのも驚きだったが、若い人なんて...と、二重の驚きでつい美香は矢継ぎ早に質問してしまう。
「若い人って?誠さんが見たの?」
誠は苦笑して
「いや、親戚の人が教えてくれた」
なんだ、親戚の人か、と美香は肩の力が抜けた。
誠の母がいつも親戚の根も葉もない陰口に悩まされているのを、誠から聞かされたことがあった。
「実は俺も見たんだよ」
誠は居心地悪そうに座りなおすと、窓ガラスに映る美香に向いてはなしはじめた。
 ある日、買い物に出かける母の後をそっとついていって、公園のベンチで若い男と楽しそうに話す母を見てしまったこと、なんだか化粧も濃くなって着る物も派手になったことなど。
 美香は口に含んでいたコーヒーを思わず吹き出しそうになった。
「誠さん、今どき小学生だって公園のベンチでデートはしないわよ。お母さんに聞いてみたの?」
 3歳年上の誠が急に年下のように思え、美香は気難しそうに煙草を吸っている誠を初めて見た人のように見つめた。
 早くに夫を亡くし、母は誠の成長だけを楽しみに生きてきたのであろう。そして小さいときの誠も母だけを頼りに育ってきたのだ。
そんな誠と母の間に自分は入りこめるだろうか、と美香は初めて誠との結婚に不安を感じた。


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食事がすむと時計は10時を回っていた。
いつもなら黙っている時でさえ楽しい二人なのに、夜の町を肩を並べて歩いていても、どことなく気まずかった。
それでも暗がりで誠に抱きしめられ唇を重ねると、不安はとけて、何も見えなくなってしまう美香だった。

「ただいま」
夜も更けているのに、美香の家はこうこうと電気がつき、テレビの音が玄関まで聞こえている。
「ほんとに、もう」
いつものことだけれど呆れて、玄関から廊下へと電気を消して居間を覗くと、母の京子がパジャマの上に半天を羽織って帳簿をつけていた。
「おや、お帰り」
最近使いはじめた老眼鏡をちょっとずらしてかけ美香を見上げる姿は、若い美香から見るとどう見ても初老の女で、京子と同年輩の誠の母と恋愛はやはり結びつかない、と改めて美香は思う。
「ねぇ、お母ちゃん」
 小さい時から呼び慣れたお母ちゃんという言葉を口にすると、急にくつろいだ気になり、美香はコートを脱ぎすてると、コタツに足をいれた。
「誠さんのお母さんに恋人がいるらしいって、誠さんが言うのだけれど」
「ええ?」
京子の眼鏡の下の目が大きく見開いた。
「あのお母さんに?」
2、3度会っただけだが、隙のない取り澄ました誠の母親澄江と恋愛は、京子にとっても意外だった。
「で、相手はどんな人なの?」
興味をそそられて、眼鏡をはずし、眉間を親指と人差し指でもみながら尋ねる。
 美香は誠に聞いたことを母に話して、最後に「でも誠さんの誤解だと思うの。あの年で恋愛なんて信じられないもの」と、つけ加えた。
「美香 恋愛は若い人だけの特権じゃないのよ」
と、京子は苦笑した。
そして、こたつの上の美香の張りのある白い手のそばに置いた自分の日焼けした、角張った手をそっと引いた。
「お母ちゃんだって、今だに男の人を好きになったり、ドキドキしたりするもの。それにむこうのお母さんは長いこと一人で苦労してきたんだもの。公園のベンチで話してるなんてきれいなものじゃないの」
 組んだ指の上にあごをのせて、うっとりとしている京子を見て、美香はびっくりしてしまった。
「おい、おい。聞き捨てならない話じゃないか」
台所からビールの入ったコップを片手に美香の父、俊男が顔を出した。
「お母ちゃん 俺以外に好きな人がいるのかい?」
笑いながら、目で何かをさがしている。
京子は黙って灰皿を目の前に置いてやり、ついでにピーナツの袋も置いた。
「何言ってるの。私にはお父ちゃんだけだよ」
自分も一緒にピーナツを食べながら、京子も笑う。
「馬鹿馬鹿しい。ほんとに脳天気な夫婦なんだから」
 なんとまあ陽気な夫婦だろう。誠の家とは裏と表みたい。
 まあ、誠の母のことは暫く様子をみよう。そう決めると急に軽い気持になった。
 時計は12時をとうに回っていた。



 何故ここまで着いてきてしまったのだろうと、澄江は居たたまれない恥ずかしさを感じていた。
妻が去ってから何ヶ月もたつという安田のアパートの部屋は、思いの外清潔に片付いていて澄江をほっとさせた。
それでも男所帯はどことなく殺風景で、窓の外からの光が主のいない鏡台の埃りを照らしていた。

 さっきまで安田と澄江はいつものように並んでベンチに座っていた。
日は射しているのに、気まぐれな神様が春を出し惜しんでるように空も公園も薄いベールに覆われていた。
桜の花もやっと一輪、二輪咲き始めたばかりだというのに気の早い蝶が花びらのようにひらひら舞っていた。
 お互いにその蝶を目で追っていることを知って二人は顔を見合わせて微笑んだ。
今まで何度も同じ言葉を同時に話してしまい、その度に微笑みあったふたりだった。
「今度遠くへ行くことになりました」
突然、安田が話し始めた。
「え?」
驚く澄江に安田は
「九州の親の側に就職が決まりまして...」
と、蝶を目で追いながら話を継いだ。
「最後に一度だけ家に来てくれませんか?」
真剣に顔を見つめられて、思わず頷いてしまった澄江だった。

 「どこかその辺に座ってください。今、お茶をいれますから」
安田が指さしたテーブルは、安田の妻の好みなのかピンクの花柄のクロスがかけてあって、揃いのクッションが椅子の上に置いてあった。
澄江はためらいながらも椅子に腰掛けた。ここにこうして座っている自分がまだ信じられないでいた。
落ち着かなくては、と思っても視線は宙をさ迷っていた。
 安田はぎこちない手つきでお茶をいれると澄江の前に置いて、俯いてる澄江の両肩に手をかけた。
驚いて叫びそうになった澄江の唇を男の性急な唇がふさぎ、澄江はその男臭さに沈み込むような目眩を感じた。

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 安田が身につけている薄いワイシャツから安田の鼓動が感じられる。
そのむせかえるような男臭さは、もう忘れかけていた夫とも、息子の誠とも違っていた。
澄江は強く抱かれていた安田の胸をそっと両手で押した。
乱れた髪や上気した顔が恥ずかしかった。
「ねぇ、手を洗いたいの」
安田の顔をまっすぐ見ることもできず、かすれた声は自分の声ではないようだった。

 安田の家の洗面所は、アパートにしては窓が大きくとってあり、陽の光が澄江の心を静めてくれた。
ゆっくりと手を洗い、澄江は顔を上げて鏡をみた。
鏡に映ったのは、額の生え際に白いものが目立つ初老の女だった。
目の下の染みや頬のたるみを明るい春の光は残酷に照らし出した。
そのうえ、乱れたブラウスの衿から見える首筋は張りが無く、小さな皺が寄っていた。
 澄江は乱暴に水道の蛇口を閉めた。そしてブラウスの衿を直した。
洗面所から出てきた澄江は青ざめて、さっきまでの上気した顔とは別人のようだった。
「安田さん、私そろそろ帰らなくては。もう会えませんがどうぞお元気で」
立ったまま切り口上で話す澄江を、椅子に座っていた安田は少し口をあけ、あ然として見上げた。
玄関で靴を履こうとしてももどかしいまでに履けず、澄江は両手に靴を持ったまま走り出た。
アパートの階段を下りる時ふりかえったが、安田は追ってはこなかった。

 どうやって家まで帰ってきたのか気がついた時、澄江は日の暮れた暗い部屋に座っていた。
何時の間にか、窓の外には音も無く雨が降っていた.
窓ガラスに手をかけて、澄江は外を見つめた。涙もでなかった。
若い娘のように泣けたらどんなに楽だろう、と思う。
 先日、美香の両親と食事した時のことを澄江はなんとなく思い出していた。
美香の母親の京子が夫の背広の衿を直したり、こぼれたビールで汚れた膝元をそっとハンカチで拭いてあげているのが、なんとも自然だった。
 あの二人のように長い年月を共に過ごしてきた二人なら、肌を合わせることも、お互いのおとろえた体を見せ合うことも、少しも恥ずかしいと思わないだろう。
澄江は冷たい窓ガラスに顔を押し当てた。
窓の外はすっかり暗くなっていた。


10

 縁側から小さな庭に下りたち、京子は腰に手をあてて庭を見まわした。
 仕事や雑用に追われているうちにすっかり雑草がはびこってしまった。
 その雑草たちにも春は小さな花を贈った。京子が愛しくその花たちを眺めていると、家の中から娘の美香が顔をだした。
「お母ちゃん、ケーキをつくったの。食べない?」
と、言いながら手にはコーヒーとケーキがのっているお盆を持っている。
 甘いものが好きな誠のためにと本を頼りに作り始めたケーキだが、最近はすっかり上手になってふんわりときれいに焼けていた。
 縁側に二人並んで座わると、コーヒーの香りが漂った。
「ねえ、誠さんのお母さん最近どうなの?」
 コーヒーを飲みながら京子が尋ねた。
 ジーパンの足を窮屈そうに折りまげて、ケーキを頬張りながら美香は笑った。
「うーん、最近はもう公園にいかないみたいよ。毎日また家の中を磨いているって誠さんが言ってた。でもね」
 美香はちょっと首をかしげて
「なんだか前よりずっと優しくなったみたい。前はちょっと恐かったけれど今のお義母さんは優しい」
 誠の母に何があったのだろう、今度お菓子でも持って訪ねていこうか。
 京子は娘の美香の姑になる人に初めて親しみを覚えた。

 いつもは静かなこの公園も桜が咲くこの季節だけは、散歩する人や家族連れで賑わった。
 だが、澄江が座っているベンチからは桜の花も見えず、人々のざわめきも聞こえてはこない。
 澄江の膝の上には、1通の封筒があった。
 もう何度も読んで暗記しているほどなのに、封筒から手紙を取り出すときに澄江の胸はまだ高鳴った。
 どこでどう澄江の住所を調べたのか、それは九州の安田からの手紙だった。
「澄江さん、どうか長生きしてください」との文から始まる手紙を、澄江は何度読んだことだろう。
安田が若いときに愛読していた本の引用で、「本当の恋愛というものは、動物的な本能的な恋情とは違い、その人の命の尊さをさとらせて生きる力をつかませるものだ」と、綴ってあった。
 そして「自分も主人公の言葉をそのまま言わせてもらいたいと思います。澄江さん、ぜひとも長生きして下さい」と、文を結んであった。
それだけの手紙だったが、便箋の白い余白に潜んでいる安田の様々な思いを澄江は知りたかった。
あの時、安田に抱かれていたらどうなっていただろう。
 自分が女でいたことさえ忘れていた日々だったのに、自分の中に女としての情念が燃え続けていたことに、澄江は戸惑っていた。
 俯いて手紙を読んでいた澄江の手に涙がぽつんと落ちた。
澄江は自分が泣いていたことに初めて気づいた。
 手紙を胸に抱きしめて澄江は空を仰いだ。
 どこからともなく桜の花びらが澄江の頬に舞い降り、涙を包んでくれた。  (完)

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