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 高校生の団体が賑やかに行き過ぎると、平日の美術館はひっそりと静かになった。
 志保はさっきから一枚の絵の前に佇んでいた。
 それは、夜の湖を描いたもので、暗い湖とつながった夜明け前らしいほの白い空が、子供の頃、喘息で家族と離れて療養していた病院の窓から見た景色によく似ていた。
 眠れない夜、そっとベッドから抜け出し、背伸びして夜の湖を見ていたあの頃の幼い自分が、忘れていた記憶から蘇えってきた。
「志保ちゃん」
 絵の前でぼんやりしていた志保は突然、背中をたたかれ、驚いてふりかえった。
 「その絵、ずいぶん気に入ったんだね。さっきからそばにいたんだよ。気がつかなかった?」
 「あら、信ちゃん」
中学、高校と同級生で、今は志保の親友美紀の夫となっている信一郎だった。
 「どうしたのよ今頃、仕事は?」
同級生のよしみでずけずけと言うと、信一郎は頭をかきながら
 「今、得意先へ行った帰りなんだ。ちょっとここで休もうと思って。悪いことはできないなあ」と笑った。
 目尻に陽気なしわが寄るこの笑い方が、学生の頃、女の子にとても人気があった。
 「信ちゃん、お茶でも飲もうか」
親友の美紀と結婚してからは、意識して親しくしないようにしていたのに、今日の志保はひどく人恋しかった。

あの湖の絵の魔法にかかったのかしら、と志保は思った。




 空からセミの声が降ってくる木立の中を歩きながら、志保は時々、横の信一郎を盗み見た。志保が片思いしていた学生の頃よりも、ほんの少し太って幸せそうに見えた。
 「志保ちゃん、もしかしたら何か悩みがあるんじゃない?」
 黙々と歩いていた信一郎が遠慮がちに聞いた。
 驚いて信一郎を見上げる志保に、少し照れたように笑いかけて、
 「昔から悩みがあると、ああやって美術館の絵の前にぼーっと立っていただろう」
 志保は陽の光に踊る木の枝に気をとられたふりをして黙っていた。
 志保の勤めるアパレルメーカーでは近頃の不況で、ますます利益を求める営業側と、個性派揃いのデザイナー達が火花を散らしていた。デザイナーの中では、古株で自然とまとめ役になっていた志保にとっては、頭の痛い毎日だった。
 でも、そんな愚痴は話しても仕方のないことだし、また、話す気にもなれなかった。
それより信一郎がそんなに志保のことを見ていてくれたのが意外だった。
 でも、私は何倍も信ちゃんのことを見ていたのよ、と志保は思った。
 黙り込んでしまった志保を見ると、信一郎は急に明るい口調になって、
 「あ、そうだ。これ」と、ポケットの中を探った。そして中から小さな紙片を取り出した。
 「これ伊万里焼の展示会の入場券。志保ちゃん、こういうの好きだったろう」
 お礼を言おうと志保が口を開きかけた時、高い木の上で鳥が一羽、ひときわ高くさえずり始めた。志保は一瞬、目を伏せて、とまどいながら信一郎を見上げた。
 「信ちゃんと一緒に行きたい」

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 テレビのニュースでは、紅葉見物の車が蟻の行列のように山道に連なっていた。
ふと、その中の一台に信一郎が妻の美紀とちいさな息子と乗っているような気がして、志保は乱暴にテレビを消した。
 信一郎と志保はあれから何度か会って、二人の間にまた昔の友情が戻ってきていた。
二十代も半ばをすぎた独身の女が友情なんて、ちょっと寂しいね、と苦いビールを飲む。
信一郎と一緒にいるときは、話しているときはもちろんのこと、沈黙が続いている時でさえ楽しかった。
 ある日、食事をしていて、ふと視線を感じて顔を上げると信一郎の真剣なまなざしに出会って、そんな時、志保は少女のように真っ赤になってしまうのだけど、だからと行って不倫と呼ばれるような、かび臭い関係にも踏み込めなかった。
 パジャマの膝が缶ビールからしたたり落ちた水滴で濡れているのも気付かないでぼんやり考えていた志保は、玄関のチャイムが鳴る音で我に返った。
時計は十時過ぎていて、「こんな時間誰かしら?」と眉をひそめながら、それでもカーディガンをはおった。
ドアの前でおそるおそる「どなたですか?」と声をかけると、アパートの薄っぺらなドアの向うから、「志保、遅くにごめんね」と聞き慣れた声がした。
驚いてドアを開けると、いつの間にか降っていた雨に、髪の毛までぐっしょり濡らした美紀と、美紀のコートを頭からすっぽりとかぶった息子の海が立っていた。




静かな夜だった。暖めた牛乳を飲ますと、毛布にもぐりこんですぐに眠ってしまった、海の寝息が規則正しく聞こえていた。
 志保は熱い紅茶にウィスキーをたらして美紀の前に置いた。
美紀は何を言いにここまできたのだろう。志保の視線は落ち着きなく部屋のあちこちをさ迷った。不安で美紀を見ることも、話しかけることもできなかった。
 「志保、あたし信一郎と別れることにしたの」
だが、美紀は案外サバサバした口調で告げると、カップを取り上げて紅茶を飲んだ。声もでない志保にニヤッと笑いかけて、「信一郎が家にいて欲しいって言うから、仕事もやめたわ。家を磨いて、料理を作って、信一郎と海のためだけに生きてきたのよ。でもね、この頃、気持が離れてきたなって感じるの」
 海が寝返りを打って、小さな丸い足が毛布からはみ出したのをまたかけ直して、美紀は愛情のこもった目で海を見つめた。
「この子のために別れるのはやめようと何度も思ったのよ。でもね」と、志保に向き直って、「あたし、結婚前は結構有望な社会人だったよね」と、聞く。
そう、雑誌社で将来を期待されていた社員だった、と志保もうなずく。
 「仕事をやめたら、どんどん視野が狭くなって、ある日、目の前しか見ていない自分に気がついて恐くなったのよ。でも信一郎は自分と海のために家にいて欲しいのよ。仕事が欲しくって何度も話し合ったわ。別れたくなかったし。でもね、最近、信一郎に女の人がいることに気付いたの」
肩をぴくっと震わせた志保に気付かず、
「その人はきっと、信一郎の望むような家庭を作れる人だ、と思ったら、別れる気になったの。これで、わたしの長い話はおしまい」と美紀は口を閉じた。


カーテンの隙間から漏れる朝の陽射しで志保は目が覚めた。
 枕元の時計を見ると七時を過ぎていた。
横の布団では、美紀と美紀の息子の海が寄り添って眠り、その向こう側のテーブルの上にはビールの空き缶が幾つも転がっていた。
 酔ってはしゃぐ美紀を布団に押し込むようにして寝かせたのは何時だったのか、布団の上に起き上がると頭がガンガンした。
 志保はそっと起き出すと濃いコーヒーをいれて、窓際に座った。それにしても、海と二人で雨に濡れて立っていたあの悲愴感はどこへいってしまったのか。美紀のあのはしゃぎかたは何だろう、と志保は美紀の端正な寝顔を見つめた。女一人で生きていくことを決めたものの、まだ不安なのだろう、と思う。それにまだ信ちゃんのこと愛してるんだ、と志保は確信していた。
 もしも...と志保は無意識にコーヒーカップを強く握りしめた。
もしも、美紀が感じた女が自分だとしたら、私は今までの美紀みたいに、信ちゃんのためだけに生きられるだろうか。
志保が、もう一歩踏み出せば、信一郎と志保は友達関係を超えてしまうだろう。
 息苦しさに耐えられずに、志保は立ち上がってカーテンの隙間から外を見た。
 窓の下を登校途中の小学生がランドセルを重そうに揺らしながら走り、その後からスーツ姿の若い女性も足早に行き過ぎた。
 私も仕事行かなくちゃね。志保は小さな声で呟いた。これから冬に向かうというのに、もう来夏の婦人服の企画が慌しく始まっていた。

 職場の喧騒が、けたたましい電話のベルや、タバコの煙さえも、遠い昔のことのように懐かしく感じられた。

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両手いっぱいにレースのような白いふわふわとした生地を持って、志保は会社の廊下を足早に歩いていた。
 生産部と書かれたドアの前まで来ると、ちょっと息を止め、そして思い切ってドアを開けた
「中山君、今度この生地で見本をお願いしたいの」
 何台ものミシンや、裁断機で雑然とした部屋のなかで、髪を茶色く染め、よく日に焼けた若い男がふりむいた。
「この生地ですか?」 中山とよばれた青年はちょっと眉をひそめ、その白い生地を乱暴に広げて見た。
「駄目ですね。これじゃミシンがかからない。また現場の縫製工場から文句がでますよ」
 やっぱり。志保は心のなかで肩をすくめた。
「でも今回はこれでいきたいの。中山君、何とかならない?」
 海外から安い服がどんどん輸入され、志保の勤めるアパレルメーカーでも売り上げが大幅に減っていた。安い外国製品と対抗するためにも「デザインの凝った製品を安い単価で作れ」と、今朝も部長から言われたばかりだった。
「小さい縫製工場ではこの生地はむりですよ。時間ばかりかかってこれでは可哀想です」
中山は生地をテーブルに放り投げた。
 志保はため息をついた。さっきも親しくしている縫製工場の営業担当者から
「デザイナーは頭でっかちで現場をしらないからなー」と皮肉を言われたばかりだった。
 廊下に出ると志保は壁によりかかった。
「仕方ないじゃない。こうしないと売れないんだから」そしてまた大きくため息をついた。
このところの寝不足で頭がずきずきした。
目の前にある大きな窓からは昼下がりのやわらかい光がさしこんでいた。
手に持った生地を胸に抱え込んで、志保は窓から外を見た。窓の外の緑などひとつもない、ゴミゴミとした町でも人々は忙しく生活をしていた。
「志保さん」
 呼ばれると同時に缶コーヒーが目の前にすっと差し出された。
ふりむくと中山が白い歯を見せて笑っていた。
「志保さん、何か疲れてないすか?」
一緒になって窓際にならぶと中山も自分の缶コーヒーを開けた。
「ああ、ありがとう」冷たい缶が熱っぽい手に気持ち良かった。
「最近の志保さん、何か変ですよ」
志保はまじまじと目の前のこの若い青年を見つめた。中山もまっすぐ志保を見つめると、また白い歯をだして笑った。



 髪を金髪に近いほどの茶色に染め、着ているものも、色あせたジーパンにセーターとまだ少年のような中山と、20代も後半、グレーのセーターに黒いタイトスカート、長い髪も今日は後ろで一本に束ねている志保とでは、よそから見たらどんな風にみえるかしらと、志保は思わず笑ってしまった。
「どうしたんですか?」つられたように中山も笑った。
「ううん。中山君といると楽しいなあと思って」
 金曜日の駅前の大通りは、光るネオンと、店から流れる明かりの中、歩く人々の群れもどことなく華やいでいた。
そんな中を一人ではなく歩くことに志保は救われていた。
「しかし、志保さんが飲みに誘ってくれるなんてうれしいなあ」
中山はそんな志保の屈折した心などもちろん気づくはずもなく、どこまでも明るかった。
「ん?志保さん?」
先を歩いていた中山が怪訝そうに振り返ったのは、志保の足が急に止まったからだった。
 志保は立ちすくんだまま、じっと前方を見つめていた。
そんな志保の視線の先には、小さな男の子の手を引いた若い父親とその妻らしき女が、肩を寄せ合って歩いていた。
「あ、志保お姉ちゃんだ」
小さな男の子がうれしそうに叫び、父親の手を振り解いて志保のもとへ走ってきた。
「海くん」
 志保の体に飛び込んできた男の子を抱きとめ、志保は二人を見つめた。 街の灯りも、人々の足も、走る車のライトの流れも止まり、その場が凍りついた。
「志保さん」 真っ青になってしまった志保の肩を中山が揺さぶると氷は音をたてて崩れ、また街は動き出す。
「志保・・・」始めに声がでたのは美紀だった。
「志保、この間はごめん。私たちね、よく話あったの。そして、もう一度やりなおすことにしたの」
優しい微笑みで美紀は夫を振り返った。
「そう。良かったね」
我ながらぎこちない笑顔だった。でも、今の志保にはそれが精一杯で、信一郎を見ることさえも出来なかった。

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美紀と何を話したのか記憶に無いほど、志保の心は波打っていた。ただ、やみくもに志保の足は街の中を歩き回っていた。まわりの景色など見えるはずもなかった。
信一郎と美紀が付き合っていると知った時、また二人が婚約したと知った時に、胸に刺さった矢の傷が、まだ完全に癒えてない事を志保は改めて思い知らされていた。
 信一郎と志保の間には何も無かった。手さえも触れず、好きだとの言葉さえ交わさなかった。そのことが良かったのか、何も無かったことがかえって辛いのか、志保は考えることさえ出来なかった。
「志保さん」
黙って志保の後に付いてきていた中山が思い切ったように声をかけた。いつの間にか賑やかな街並みを抜けて、人影も途絶えた静かな公園まで来ていた。
「志保さん」もう一度声をかけた中山の目には困惑の色があった。
 だが、その目の中に同情だけでなく、優しさを感じた時、志保は思わず中山の胸にとびこんでいた。
「お願い。少しだけ泣かせて」
胸にとびこんできた志保をしっかり抱きしめ、中山は何も言わず、いつまでも志保の頭を撫でていた。
次の日から志保は会社を休んでしまった。体が熱っぽく、起き上がることができなかった。熱を測ると39度もあった。
志保は耐えていた。もちろん親友の美紀を悲しませたくないという思いもあった。でも、それ以上に信一郎にこれ以上すがって、未練がましい女と思われたくなかった。志保の女としてのプライドが許さなかった。
「可愛くない女だなあ」と、志保は呟いた。でも、どうしようもなかった。志保は深くため息をついた。下唇が白くなるほど強く噛んで、頭から布団をかぶり泣き続けた。自分にこんな情熱があったのが不思議なくらいに、涙が止まらなかった。
二、三日してやっと起きられるようになった志保が、久しぶりに良い香りを感じつつ、コーヒーを入れていると、玄関のチャイムが鳴った。
「は~い」返事をした志保の耳に返ってきたのは「中山です」という遠慮がちな男の声だった。志保はドアを前にして、少し躊躇した。あの日いつまでも泣きじゃくる志保をアパートまで送り、黙って帰っていった中山だった。
思いきってドアを開けると、そこにはいつもの中山の笑顔があった。




志保は中山のためにコーヒーを入れながら、そんな中山を横目で見ていた。
「余りあちこち見ないで。掃除してないのよ」実際、やっと起き上がれるようになったばかりで、今日の志保は化粧もしてなかった。
「すみません」中山はちょっと赤くなって頭を掻いた。
そして思い出したように「これ、お見舞いです」と、紙袋を差し出した。 ずっしりと重いその紙袋は開けて見るまでもなく、ぷんとりんごの甘い匂いがした。
「風邪の具合はどうですか?」
志保が指差した椅子に座りながら、中山はコーヒーカップをテーブルのうえに置く志保を仰ぎ見た。
志保はあいまいに微笑んだ。高い熱はでたが、咳がでるわけでもなく、薬も飲まず、まして医者にも行ってなかった。
暫く二人とも気まずく黙っていた。あの晩のことをお互いに思い出しているのがわかった。
職場での忙しく働いている自分ではなく、女としての生々しい自分を見せてしまった事が、ただ恥ずかしかった。
でも、中山と目が合うと志保は笑い出してしまった。
熱が引くとともに、信一郎への思いも引いていったように思えた。結局、信一郎に愛され続けている、親友の美紀に嫉妬していただけなのかもしれない。
初めから好きじゃなかったんだ。無理にでも、そう思いたい志保だった。
「心配かけてごめんね。でも、もう大丈夫」
りんごをかじると、その冷たい爽やかさが志保の心をしゃんとさせた。
「いえ、元気になって良かったです」明らかにほっとした顔で中山も笑った。
「志保さんがいないと仕事もガタガタですよ」
中山の言葉に志保も仕事を思い出す。わたしはいったい何をしていたんだろう、と志保は顔を上げてあたりを見回した。

くすんでいた部屋に急に色が戻ってきたような気がした。

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10

公園のベンチの枯葉を手で払って、志保はそこに腰を下ろした。
すっかり秋も深まった。肩にかかっていたショールで首をしっかりくるんで志保は空を見上げた。
 このところ、志保は幸福だった。
中山は優しく、明るく、仕事でも良きパートナーだった。その正直で真っ直ぐな視線に、志保は時々目をふせてしまうのだけど、目を上げると中山の顔はいつも笑っていて志保をほっとさせた。
中山が志保のアパートに泊まった朝、志保は味噌汁をつくりながら、中山と結婚した時のことを思っていた。
いつか見たテレビドラマの主婦のように、夫を送り出した後、布団を干したり、買い物に行ったり、観葉植物に水をやったり・・・
 その時の、自分のうっとりとした顔を思い浮かべて、思わず志保は吹き出してしまった。
自分はいったい何を考えているのだろう・・・・でも、確かにそれは甘い幻想だった。
それは、女が男を好きになった時にかかる罠なのかもしれない、と、志保は思った。
そして親友の美紀はその罠から逃れるためにもがいている・・・・
志保はため息をついた。
その時、後ろから力強い腕が志保を抱きしめて、志保は我に返った。
「待った?」並んでベンチに座った中山の息が白かった。
「もうこの場所で待ち合わせは無理だね」
と、中山は志保の冷たい手を握った。
「ううん。大丈夫。それよりそれ見せて」
志保は中山が膝に乗せておいた大きな茶封筒を取り上げて中の書類を取り出した。
 それは来年の生産計画書で、中山は休日返上で仕事をしていたのだ。
「う~ん。これって、まずくない?」
計画書をめくりながら志保は眉をよせた。
「この工場では・・・・」
言いかけた志保を遮って中山は
「これは営業の仕事。デザイナーは黙っていてくれないかな?」と、書類を取り上げた。
その中山の態度に志保は目を見張った。
それはこの間までの、後輩としての遠慮がちな中山とはまるで違っていた。



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少年から大人の男になったように自信に満ち溢れていた。
 それは志保だけがそう思うのではなく、社内の誰もが
「最近、中山君変わったよね」と、噂しあうほどだった。
 自分の仕事もしっかりするけれど、志保の仕事も容赦なく批判した。
 中山に仕事ぶりを手厳しく批判されて志保は唇を噛む。「なにくそ」と、思う。
 家に戻って、最近、何故か居ついてしまった中山が入れてくれたコーヒーを飲みながら、志保はため息をつく。
 くやしいけれど、コーヒーを入れるのも、食事の支度をするのも、中山のほうが断然手際がよかった。
「ちゃんと順番を考えながらやるのさ」
涼しい顔でさっさと後片付けもしてしまうと、読みかけの本を手にとってベッドに寝転がる。
「いったい、この人はどういう育ち方をしたのだろう」志保はまるで違う種族でも見るように中山を見た。
「ねぇ」中山と一緒にベッドに寝ながら、志保は中山の首に腕をまわした。
「あなたのご両親はどんな人なの?」中山は横に寝ている志保の髪をなでながら
「今度、一緒に会いに行こうか?」と、笑った。
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12

「志保、会いたいんだ」
受話器の向うから聞こえる信一郎の声は少しくぐもって、低く闇に溶けた。
時計を見ると10時少し過ぎたところだった。
中山はベッドの上で規則正しい寝息をたてている。
「今どこにいるの?」志保は受話器に向かってささやく。
「志保のアパートの前」
(今さら何なの?)妻の美紀と息子の海と3人で幸福そうに歩いていたあの日が、脳裏に蘇る。
だが、志保の口からは
「わかった。すぐ行くから待っていて」の言葉がためらいもなくでていた。
受話器を置いた志保は息を止めて、暫く暗い窓を見つめていた。
コートを羽織って外に出た志保はあたりを見回す。
アパートの前の電柱の影でタバコの火が光り、信一郎が立っていた。
「信ちゃん」戸惑いながら駆け寄った志保に信一郎は気弱そうに微笑んだ。
二人は黙って歩きだした。空には星が光り、吐く息がいっそう白く見えた。
「志保、ごめん」
沈黙に耐えられなくなったのは信一郎だった。
「今さら何なの?」志保の声は自分でも驚くほど冷たかった。
「志保が好きなんだ。わかっているだろう?」
志保の足は止まった。信一郎に向かい合う。
「じゃあ、美紀のことはどう思ってるの?この間の夜は何なの?」
信一郎の顔が苦しく歪んだ。
「美紀も海も大事なんだ。捨てることは出来ない。でも、志保のことが好きという気持ちも本当なんだ」
好きという甘い言葉がこんなに辛く聞こえるなんて・・・
「信ちゃん、ずるいよ。自分は何にも無くさないで。手の中の大事な物、何もなくさないで」
あの日、泣き尽くしたはずの涙が、また志保の頬を流れた。
志保は信一郎を残して走り出した。
振り向きもせず走り続けた。
星の光は夜空にはりつき、冬が来たことを知らせていた。

13

アパートの部屋に戻ると志保はそっとドアを閉めた。
ドアノブに手をかけたまま暫く動けなかった。涙がどうしても止まらない。
どうしてこんなに涙がでるのか、志保は自分で自分の心を持て余していた。
 学生時代からずっと好きでたまらなかった信一郎。親友の美紀と結婚してからも忘れられなくて、美紀からの手紙や電話のなかにさえ、信一郎の面影をさがしていた。
そして、そんな自分に嫌悪感を覚え、また落ち込んでしまう。
 その信一郎がやっと振り向いてくれたのに、喜びよりも辛さのほうがずっと大きいなんて・・・
 ベッドの上の中山は健康そうな寝息をたてていた。
志保は中山の上に屈みこむと、そっとその唇にキスをした。
瞼、鼻、唇と指でさわっていく。規則ただしく動いている胸、志保をしっかり抱きしめてくれる腕・・・・
 次第に志保の心は落ちついていった。
ずるいのは自分かもしれない。本当に信ちゃんが好きならば誰が傷ついても信ちゃんの胸に飛び込んでいけるはず。誰も傷つけたくないなんて、結局、傷つきたくないのは自分自身だったんだ。
志保はベッドに横に座り込み、中山の裸の胸に頭をつけた。中山の力強い心臓の音が聞こえた。それは、いつかどこかで聞いた波の音だった。
寄せては返す、どこかなつかしい波の音。
いつのまにか、志保も寝息をたてていた。
 次の日曜日、志保は中山家の玄関の前に立っていた。
「大丈夫?随分緊張しているね?」
横にいる中山が驚いて志保の手を握り締めるほど、志保の顔は紅潮していた。
「うん。大丈夫」
志保は苦笑してスーツの襟を手で確認した。
「よし」 小さく気合を入れると、中山が握った手に力を入れた。
「ただいま」 ドアを開けて二人は中に入る。
ドアの中は少し狭いけれど、綺麗に掃除され、どことなく暖かみがあった。
下駄箱の上に飾ってある一輪のバラの燃えるような赤に気をとられ、志保は緊張を忘れた。
「おかえりなさい」
 初めて会う中山の母の声がした。


14

 中山の母雪子は、その名の通りの色白の顔に微笑みを浮かべて、二人を出迎えた。
背中まで垂れる長い髪を後ろで一本に束ね、デニムのロングスカートに洗いざらしのTシャツを着たその姿は、ひと昔前のフォーク歌手のように素朴だった。
薄く口紅をひいただけで素顔に近かったが、いたずらっぽく踊るその目は若々しく、志保はひと目でこの人が好きになった。
「いらっしゃい、志保さん。さあ、上がって」
手を取られるようにして入った部屋はコーヒーの良い香りで満ちていた。
「志保さん、いらっしゃい」
部屋の中から明るい声がいくつも聞こえてきた。
中山の父らしき年配の男性が、小さな女の子を抱えてソファーに座り、居間と繋がっているキッチンから中山によく似た若い男性が顔をだしていた。
その後ろから若い女性がエプロンで手を拭きながら顔を覗かせている。
その誰もが優しい微笑みを浮かべ、志保は自分が歓迎されているのがわかった。
中山がこの家の人たちに自分のことをどう話してくれているのかを痛いほど感じ、志保の胸は熱くなる。
父親のお気に入りだと言う、取って置きのコーヒーの香りは志保の緊張をほぐした。
家族で交わされている近所の噂話や、来春にあるという中山の祖父の法事の話をしているときでさえ、志保はもう部外者ではなかった。
志保はそっと中山の顔を盗み見る。
まだはっきりとプロポーズを受けたわけではなく、もちろん承諾したわけでもないのに、このほんわかとした雰囲気に溶けている自分が信じられなかった。
まして、ついこの間まで職場の後輩だけだった男がソファーの横に自信たっぷりの顔で座っているのが不思議だった。
そして何故か心のどこかで説明のできないような、苛立ちも感じていた。
「次郎」中山の父が膝の上の女の子を兄嫁に渡しながら中山を呼んだ。
女の子は眠くなったのか、さっきからしきりに目をこすっていた。
「眠いのね。お部屋に行って寝ましょう」
兄嫁に手を引かれて部屋から出て行く女の子は、部屋を出ながら振り向いて
「次郎ちゃんのお嫁さん、またね」と、手をふった。
「はい。またね」
その愛らしい仕草に微笑みを誘われながら「次郎ちゃんのお嫁さん」という言葉の重さに今さらながら驚いていた。
志保の年齢を考えれば、周囲の誰もが当然のようにそう感じることなのは志保にもわかっていた。
それでいて今この時点でさえも、はっきりとした決心がつかない自分が情けない。
女が結婚に踏み切ろうと決心するのは、相手のことをどれくらい好きになったときだろう。
「次郎」 再び中山を呼ぶ声で志保はわれに返った。
「次郎。志保さんはいい娘さんだ。大事にするんだぞ」
「もちろん。大事にするよ」
中山も真面目に答える。
「志保さん」中山の母が口を開いた。
「次郎から聞いているわ。とても優秀なデザイナーなのですってね。結婚しても、仕事は続けるのでしょう?」
優秀なデザイナーなんてとんでもない。でも、中山の母が言うと少しも嫌味ではないわ。
と、志保は思う。
「はい。続けます」志保は率直に答えた。
「そう。じゃ、家事は次郎をどんどん使いなさい。遠慮しなくていいのよ」
志保は横の中山の顔を見た。
中山は当たり前のような顔をしていた。
「はい。そうします」志保は中山の顔を見て笑った。
結局、こんなふうに自然にこの人と歩いていくんだ。静かに優しく新しい生活は始まって行く・・・ 賑やかに楽しく食事も終わり、中山と志保は皆に送り出されて玄関をでた。
「あ、携帯忘れた。ちょっと待っていて」
慌てて家に戻る中山を見送りながら、志保は自分の携帯を取り出した。
信一郎の電話番号をだす。「データ削除」を親指で押さえた。
指が震える。志保はため息をついた。
「出来ない。出来ないよ、信ちゃん・・・」
志保は携帯をたたむとバッグにしまった。
自分の心がわからなかった。涙で夜空の星が滲んだ。
「志保、お待たせ」中山が息を弾ませながら戻ってきた。
「うん」志保は中山の腕をとった。
中山の肩にもたれかかりながら志保は歩き出す。
冬の月は二人の姿をやさしく照らしていた。(完)
    
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<2003.11.12>

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