春風さん・1


「これ、何とかならない?」真治がテーブルの上の皿を指差した。
皿には豚カツと千切りキャベツが盛ってあった。
真治がキャベツを箸でつまむと、切れていないキャベツが箸から垂れ下がった。
「あら、ごめんなさい」裕子は笑いだした。
「良く噛んで食べてね。顎の体操だと思ってね」
仕事から夜遅く帰って一人で夕食をとっている真治のそばで、裕子はテレビを見ていた。
 テーブルの上には読みかけの新聞や、子供が飲んだ牛乳のコップが置いてあった。
真治はテーブルの隅のほうで、そそくさと夕食をすますと、居間に移動した。
狭い居間には子供のおもちゃが散らかっている。寝室と繋がっている襖を開けると娘の可菜が寝ていた。笑っているような寝顔が可愛かった。

真治はやっと寛いだ気持ちになってソファーに座ると、可奈の人形がごつんと尻にあたった。

 「まったく・・部屋を片付けろよ」台所の裕子に声をかけると、裕子は「はーい」と返事だけしてまだテレビを見ている。
真治はため息をついて、自分で片付けはじめた。時計は11時になっていた。

 夜中、裕子は誰かの話し声で目がさめた。低い声でブツブツ言っている。

隣で寝ているはずの真治の布団がからっぽだった。
話し声はまだ続いていた。真治が誰かと話しているようだ。
「電話かしら?」枕元の目覚まし時計は午前1時を指していた。
裕子はそっと起きて、声のするほうへとつま先だって行ってみた。
薄暗い台所で、真治が手のひらを見つめて何か話している。
「もう嫌になったよ。家に帰っても少しも寛げないんだぜ」
「もっと神経の細かい女かと思って結婚したのに・・」
手に携帯でも持っているのだろうか?誰に話しているのかしら?
その女ってわたしのこと?
パジャマの肩が寒いのと、何だか不気味なのとで、背中がぞくっとした。
「あいつも悪い女じゃない。それはわかっているんだ。でも、あまりにも無頓着すぎる」
 真治の繰言は続く。
(誰と話しているのだろう?)
震えながらも裕子はそこから離れることが出来なかった。
やがて真治は自分の手のひらに笑顔を見せた。
「もう寝るか。ごめんな、愚痴ばかり言って。でも君が聞いてくれるから助かるよ」
椅子に登って冷蔵庫の上に何かを置いている。
真治がこちらに来る気配がして、裕子は慌てて寝室に戻った。


 やがて隣の布団では真治の規則正しい寝息が聞こえてきたが、裕子は朝まで眠れなかった。

「誰と話していたのだろう。冷蔵庫の上に何を置いたの?」
いつまでも心臓がドキドキしたしていた。


 朝になり、朝食を作りながらも視線はどうしても冷蔵庫の上にいってしまう。
それでも知らん顔をして真治を送り出した。いつもは台所で声だけで送るのだが今日は玄関まで見送り、「頑張ってね」と声までかけた。
「どうしたの?」真治が怪訝な顔をしたが、裕子は黙って笑って手を振る。
(どうせ、わたしは無頓着な女よ)心の中ではふて腐れていたがさすがに顔には出さない。
 真治の足音が消えてしまうと、裕子はすぐに台所にとって返した。

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椅子を持ってきて、冷蔵庫の上を見る。
そこは埃だらけで、デザインが気に入って買ったけれど使い勝手が悪く、結局使わなかったトースターや、魚焼き器がやはり埃をかぶっていた。
あちこちに目をやっていた裕子が信じられないと言うように小さく悲鳴をあげた。
トースターの裏にマッチ箱があり、その中に小さな女が寝ていた。
(人形?)裕子は息を詰めてじっと見つめた。
それはどう見ても生きている女だった。マッチ箱の中に布切れを敷いて、その中に女は寝ていた。
良く見ると、そのベッドらしきそばには、小さなテーブルと鏡台と箪笥があった。
それは、可奈の人形に付いていたものだった。汚れたので、捨てた覚えがある。
鏡台の上に何か光っている。ピアスだった。
今年の結婚記念日に真治に買ってもらったが、どこかで落としたのだ。
もちろん、真治には無くしたことは秘密にしてあった。
裕子は茫然として椅子から降りた。
信じられなかった。頭がどうかしたんだろうか。
でも・・・なんとなく懐かしい気がした。何故なつかしいのだろう。
遠い昔にこういう光景に出会ったことがある気がする。
裕子は思い切ってもう一度椅子に登って冷蔵庫の上を覗いてみた。
女はぐっすり眠っていて起きる気配もない。
埃だらけの冷蔵庫の上がその一角だけは綺麗に拭き清められていた。
ベッドやテーブル、鏡台もきちんとまっすぐに配置してあった。
汚れたから捨てたはずの人形の家具なのに、ピカピカに磨いてあった。裕子は力なく椅子から降りた。
何がなんだかわからない。テーブルの前の椅子に崩れこむように座ると頭を抱えた。
真治はこの人と話していたのに違いない。
何かが頭の中にあるのに、どうしても思い出せない。もどかしかった。
「ママー」一人でおとなしく遊んでいた可奈が遊びにあきて側にきた。
可菜を抱き上げたときに、裕子の頭のなかで何かが蘇った。
「可奈、大きいおばあちゃんの家に行こう」
可奈にコートを着せると、裕子は家から飛び出した。


 大きいおばあちゃんの家は車で20分位のところにあった。
可奈からすれば、ひぃおばあちゃんだが、裕子にはおばあちゃんだ。
90歳になるが、まだ目も耳も衰えていなく少しも呆けていなかった。
「おばあちゃん」あいさつもそこそこに裕子は家に飛び込む。
「あらあら、どうしたの」ウールの着物がしっくり似合う白髪の女性が玄関に出てきた。
「おばあちゃん、春風さんの話をして」居間に座ると裕子は祖母にせがんだ。
「どうしたって言うの」祖母は可奈にビスケットをあげながら、呆れたように裕子を見た。
「いいから、早く」裕子が小さいときに祖母が時々布団のなかでしてくれた話だった。
「春風さんって言う親指くらいの小さな女の人がいてね。疲れた人や、悲しい人の家に住んでいるの。その家のいらなくなったものを上手に使って、家の中の誰にもわからないところにひっそりと暮らしているの。疲れた人だけが夜中に彼女とお話できるのよ。でも、家族の誰かが気づくとどこかに行ってしまうの」
小さいときに、布団の中で祖母が話してくれた言葉の抑揚もそのままに、裕子の脳裏にその話が蘇ってきた。
「あの人は春風さんだったんだ」裕子は呟いた。そしてはっとした。
「悲しい人って、疲れた人って真治?」
そう言えば、最近の真治は疲れていた。休みもろくに無い激務で目の下にくまが出来ていた。気づいていたのに、何もしてあげていなかった。
裕子は胸が詰まった。
「あ、でもわたしに気づかれたから春風さんはどこかに行ってしまう。おばあちゃん、どうしよう。真治が悲しがるわ」
祖母は優しく笑って言った。
「真治さんには裕子がいるじゃない。春風さんてね、心が優しい人にしか見えないのよ」
祖母の家を出て、家に帰る途中も裕子はぼんやりしていた。
家につき台所に行く。そっと冷蔵庫の上を見た。
誰もいなかった。ベッドもテーブルもなかった。

冷蔵庫の上にはピアスがひとつきらりと光るだけだった。(完)


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春風さん・2



朝は晴れていたのに、給食を食べる頃には窓の外はすっかり暗くなっていた。
授業が終わって小学校の玄関を出たときには大粒の雨が降っていた。
カバンの中に傘は入っていた。
今朝、母さんが
「天気予報で雨になるって言っていたから、傘持って行ってね」
と、手渡してくれたんだもの。
お友達の由美ちゃんのお母さんがエプロン姿で傘を持ってきた。
「晴香ちゃん、傘持ってきたの?」

わたしに優しく聞いてくれた。
「はい。持ってきました」
わたしは傘をカバンから出して振って見せた。
そしてお辞儀をすると傘をさして外に飛び出した。
水溜りの中をジャブジャブ走った。
少し走って振り向くと、由美ちゃんとお母さんは仲良く肩を並べて歩いていた。

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わたしは泣きそうになった。

また、ジャブジャブ走った。
昨日、授業参観があったのに、母さんはとうとう来てくれなかった。
由実ちゃんのお母さんもみんなのお母さんも、きれいにお化粧して来ていたのに。
「晴香、ごめんね。お仕事が忙しくて」
母さんはミシンから顔も上げないで、謝った。
母さん、顔が見えないよ。わたしの顔を見て。
でも、わたしの口から出たのは「ううん。いいよ」だけだった。父さんが病気で死んでから、母さんは家でミシンの仕事を始めた。
母さんの他に、近所のおばさんが2人パートで来ていた。
母さんは仕事が間に合わないと夜遅くまで仕事をしている時もあった。
前は、母さんがミシンを踏んでいる側で寝てしまったけれど、今はもう5年生。
一人でお風呂に入って一人で寝る。
母さんが一生懸命なのを知っているから、平気なんだ。
「平気だよ」

わたしは天井に向かって呟いた。雨はまだ降っていた。
平気なはずなのに、雨と一緒に涙も流れてきた。

しょっぱかった。
傘を外して雨に濡れて歩いた。
「ただいま」
わたしは濡れたまま、母さんの側にいった。
相変わらずミシンの前にいた母さんはわたしを見て驚いた。
「どうしたの?そんなに濡れて。傘持っていったでしょう?早く着替えておいで」
そう言うと、またミシンの上の布を手に取った。
そんな言葉が聞きたいんじゃないよ。

母さん、わたしをもっと見て。
「母さんのばか」

手に持っていたカバンを投げると部屋に走り込んだ。
「奥さん、行ってやりなよ」
近所のおばさんが母さんに言っている。
「いいのよ。甘やかすと癖になるから」
母さんが答えている。
わたしは泣きながらいつしか寝てしまった。
目が覚めたのは何時だろうか?真っ暗だった。

いつの間にか布団に入っていた。
誰かが泣いていた。

母さんの声だ。
わたしはそっと布団から出て声のするほうへ這っていった。


母さんがタンスの引き出しを開けて中を見ながら泣いている。
「あなたならわかってくれるわね?わたしがしっかりしないと晴香を育てていけないの」
母さんはすすり泣いている。
「でも、晴香は寂しがっている。どうしたらいいのかしら」
そのとき、母さんの声のほかに小さな声がした。
優しい声だった。

まるで春風が吹いてきたような、心がほっとする声だった。
「日曜日にどこかに行ってきたら?どこでもいいのよ。手を繋いで歩くのよ」
さらに心地よい声で続けた。
「大丈夫だから。あなたは間違っていないわ。きっと晴香ちゃん、わかってくれるわよ」
誰だろう?でも、誰でもいいわ。

あんな優しい声は聞いたことがない。
心に静かに染み渡り、また暖かい涙が溢れてきた。
「母さん、ごめん」

わたしは母さんにしがみついた。
母さんはびっくりしながらも、わたしを抱きしめてくれた。
母さんの腕に抱かれながら、わたしはタンスの方をそっと見る。
小さな小さな女の子がタンスの引き出しに手をかけてこっちを見ていた。
そしてわたしにウィンクした。次の朝、わたしが起きると母さんは張り切ってハイキングのお弁当を作っていた。
わたしはすぐにタンスの引き出しを開けてみた。
夢だったのかな。

タンスの中には誰もいなかった。(完)


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風 * 薫 <2004.04.20>

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