駅前の繁華街にあるマンションに明子は夫の隆志と2人で住んでいた。
今夜も夕食を作ってしまうと、隆志が帰ってくるまですることがない。
明子は窓枠にもたれてぼんやりと外の景色を眺めていた。
9階の部屋からは町の灯りや走る車のライトが眼下に光って見える。
夜の闇を背景にした窓ガラスには夕飯がおかれたテーブルが映っていた。
湯豆腐、アスパラとローストビーフの胡麻だれ和え、魚が苦手な隆志のために秋刀魚は骨と内臓をとって大根おろしとまぶし、九谷焼の小鉢に盛りつけた。
あとは味噌汁と、胡瓜と蕪の浅漬け。
贅沢でも粗末でもない、中年の夫婦の夕飯だ。
そろそろ、隆志が帰宅するころだ。

夜になるとぐっと冷え込んできたが、少しでも早く明子のもとに帰りたい隆志は汗を滲ませて急いで歩いているだろう。
ひょっとするともうエレベーターに乗っているかもしれない。
明子は窓から離れ、鏡の前に立った。髪を撫でつけ口紅をつける。
こうやって心をときめかして誰かの帰りを待つ日が来るとは、1年前には思いもしなかった。

明子と付き合い始めたころ「末っ子の就職が決まった日に妻から離婚を言い出されたんだ」と自嘲的に笑いながら話してくれたことがあった。
「妻は『もう母としての役目は終わったから、教師に専念したいの』と言った。僕にも会社人間で家庭を顧みなかった負い目があるから反対はしなかった」もっとも、そのずっと前から僕達には夫婦としての愛情なんて無かった気がする・・・
喫茶店でコーヒーを飲みながら話す隆志の寂しそうな目が、いまだに明子には忘れられない。
お互いに納得して穏やかに別れたせいか、隆志は今でも子供達とは仲良くしていて、時々電話やメールが来て明子は複雑な気持ちだった。


その明子の離婚にはかなりの修羅場があった。

隆志と知り合う頃には、もう夫婦関係は崩壊していたがそれでも隆志という人が現れなかったら離婚はしていなかったと思う。
どんよりした水の中の金魚のように喘ぎながら暮らしていたことだろう。
すべての財産を放棄して身ひとつで出てきたのだが、結局明子が離婚を押し通した形になって子供達とも気まずくなってしまった。
長男はともかく、女同士の長女ならきっといつかはわかってくれる、その頼りのない希望だけが心の支えとなっていた。隆志と明子の結婚はお互いを思いやり穏やかな生活だった。
どちらも今までの結婚生活の失敗は繰り返すまいと心に決めていた。
人生半ばを過ぎて良いも悪いも確立された人格の二人が、共に暮らすということの難しさはわかっていたつもりだった。
それでも年になるとお互いに頑固になってきて、こんなはずではなかった、と途方にくれることもある。
小さな喧嘩もあるが、休みの日は二人で買い物をしたり、落ち葉を踏みしめて散歩をしたりと、しみじみと二人でいることの幸福を感じた。
歩きながら隆志の肩にもたれている自分はこの世で一番幸福だと思う。
ある日、歴史のある古い神社を訪ねたことがあった。隆志は歴史ある建物を見るのが好きで、休みのたびに明子を連れ出した。
明子も古い建物は好きで、二人は飽きずに見てまわった。
「夫婦でこういうふうに歩くのが夢だったんだ」手をつないで、隆志は明子の耳にささやく。
少し歩くと古い能舞台があった。昔、ここで能が行われたのだろうか。
目をつぶると能の謡いと舞が蘇るようである。風に揺れる木々のざわめきも消えて明子はたたずむ。
「明子、戻っておいで。君は何百年も前の世界にいるんだよ」
隆志の声で我にかえると明子は隆志の胸の中にいた。
幸せだった。自分達だけがこんなに幸福でいいのかと、怖くなるほどだった。


夜、隆志の胸の中で明子は

「自分達だけがこんなに幸福でいいのかしら」と訴えた。
「もっと幸せになろう。そのために一緒になったのだから」
軽く明子の背中を叩きながら、隆志は答える。
そう、幸せになるために一緒になったのだ。これからの人生には不幸もあるだろう。
けれど、この人となら乗り越えられる。そう確信したからこそ彼に着いてきたのだ。
玄関のチャイムが鳴った。隆志が帰ってきたのだ。
明子は玄関に走る。今はもう漠然とした不安も消えていた。
「お帰りなさい」
隆志の笑顔が見えた。

二人の夜が始まる。                    


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風 * 薫 <2003.11.12>

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