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この町で一番高い建物は中学校の屋上で、そこからは町が一望できる。

古びた二階建ての役場や公民館、小さな商店街。

その回りが賑やかなだけで、あとは畑ばかりが広がっている。

畑の中に小さな森。目をこらすとお寺のような建物も見える。

最近は遠くの大型店まで車で買い物に行くのがあたりまえになって、客と言えば姑の輝子との茶のみ話を楽しむ年寄りばかりだ。

それでも、夫の幸雄はサラリーマンで月々決まった収入はあるし、お寺の前と言うこともあってお盆やお彼岸にはそれなりに賑わうし、第一商売を止めてしまったら輝子が悲しむ。

埃がうっすらついた洗剤やお醤油の瓶を拭きながら、小さなため息が出てしまう聡子だった。

子ども達が慌しく学校へと行ってしまうと、箒とちり取りを持ってお寺の境内の掃除に出かけるのも聡子の日課である。

お寺の境内の落葉樹はすっかり葉も落ち尽くしたのに、どこから舞ってくるのか、いつまでたっても落ち葉が絶えない。

ざっと境内を掃いて墓地の前まで来て、聡子はふと立ち止まった。

ひとつのお墓の前に女性がうずくまってお参りをしている。細い肩が震えて、嗚咽が聞こえる。

その思いつめたような雰囲気に「どうしよう。引き返そうかしら」そう思いながら、足が動かない。

「あのー」余計なことだと思いながら、つい声をかけてしまった。

小さい町だから、ほとんどの人の顔はわかっているはず。

でも、驚いたように振り向く女性の顔には見覚えがなかった。

「あの、わたし、森商店の者なのですけど」

(どうしたのですか?)と聞くわけにもいかず、聡子はつい自己紹介をしてしまう。

「ああ、森さんの・・・」

どうやら女性は森商店を知っているみたい。

「ここ、父のお墓なんです」

女性はお墓を見つめた。

聡子もなんとなくお墓を見た。

そういえば、お盆やお彼岸でどこのお墓も花やお供え物で賑やかになるときも、このお墓は誰もお参りしてなかった。

「20年ぶりなんです」女性は低い声で話し始めた。

「昔は、この境内に父と一緒に犬を連れて散歩にきたんですよ。夕方の薄暗いときの父と犬のシルエットが今も目に浮かびます」

「あら。わたしって何を話しているのだろう」女性は少し笑うと、聡子にお辞儀をした。

「いいえ、わたしこそ、お邪魔して」聡子も笑いながらお辞儀をかえした。

わたしこそ何をしているのだろう。こんなときに声をかけたりして・・・

箒と塵取りを持ち直すと、聡子は足早に家へと帰った。

なんだか、見てはいけないものを見てしまった気分だった。

聡子の住む家は、そのお寺の前で森商店と言う小さな雑貨店を営んでいた。  

「お寺さんにはお世話になっているから」と姑の輝子が始めた掃除だが、膝を痛めてからは聡子の仕事になっていた。

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家では姑の輝子が店番をしてくれていた。
「ご苦労様。寒かっただろうね。お茶でも飲むかい?」
石油ストーブの上のヤカンの湯で熱いお茶を入れてくれる。
「ね、お母さん」
お茶を飲むのももどかしく、聡子は話し始めた。
暫くじっと聡子の話を聞いていた輝子が思い出したように
「それはきっと田所さんちの由美子ちゃんだよ。お墓に田所って書いてあっただろう」
ああ。そう言えば、田所家だったかも知れない。ひっそりとしていて、誰も足を止めないような墓だった。
田所一郎は小さな町工場を経営していた。一郎はこつこつと働く昔風の経営者で、工場もそれなりに繁盛していた。
だが、長男の宗一が若くして事故死したあと酒におぼれ、夫婦仲も悪くなり
「悪いことが次から次へと起こってね。とうとう工場も人手にわたり、奥さんは出て行ったんだよ」
娘の由美子は母親が連れて行ったけど
「お父さんと別れるのが辛いってずい分泣いてね。見ているわたしらも辛かったけど、どうしてやることも出来なかった」
輝子はすっかり冷めてしまったお茶をすすった。
聡子は姑の茶碗に熱いお茶を注ぎながら、今日の由美子を思い出していた。
肩を震わせて泣いていた由美子の姿がいつまでも頭から離れない聡子だった。

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暫く降り続いた雨がやっと止んだ。

家の中に干していた山ほどの洗濯物を庭に干していると

「聡子さん、ちょっと」と姑の輝子が呼ぶ声がする。
「はーい」縁側から上がりこんで声がするほうに行くと
「これ、お寺の奥さんに持っていってくれない?」
大根とブリの煮物の入った鍋を持って輝子が立っている。
「これね、お寺の奥さんの好物なのよ」
鍋からはホカホカと湯気があがっている。
「あら、おいしそうですね。じゃ、すぐに行ってきますね」
こういう時はすぐに行かないと輝子は機嫌が悪い。
この気の短いところは夫の幸雄にしっかり遺伝していると聡子はいつも思う。
裏口からサンダルをつっかけて20歩も歩けば、もうお寺の境内に入る。
本堂の前を通って住宅に回ると、住職夫人の初枝が玄関先で植木鉢に水をやっていた。
「母が大根を煮ましたので」
貰い物のお裾分けや、たくさん作ったおかずを分け合うのがあたり前の仲なので、挨拶抜きで鍋を差し出す聡子に初枝は驚きもしない。
「あら、ありがとう。輝ちゃんの作ったブリ大根はおいしいのよね」と嬉しそうに笑う。
「そうそう。今日檀家さんからお菓子をたくさん戴いたの。輝ちゃんに持っていって」
先にたって玄関に入りながら「聡子さんもちょっとお茶を飲んでいきなさいよ」と誘ってくれる。
この話好きな住職夫人に捉まると「そろそろ帰らないと」と言ってからも30分は帰れない。
洗濯物は早く干したいし気は焦るけど、今日の聡子には住職夫人である初枝に聞きたいことがあった。
お茶を飲みながら次から次へと尽きることのない初枝の話題に、聡子はやっと割り込むことができた。
初枝が部屋に入ってきた飼い猫に一瞬気をとられたからだ。


「あの~奥さん、この間、田所さんのお墓の前で女の人を見かけたのですが・・・」
「え?」話の腰を折られてちょっと間が抜けたような顔をした初枝だったが
「ああ、由美子ちゃんね・・・」と急にしゅんとした顔になる。
「お義母さんから少しは聞いたんですけど・・・」
「田所一郎さんが亡くなって今年が17回忌なのよ。奥さんとは別れたし、身内と言ったら隣町の姉さんと娘の由美子ちゃんだけだからね」
珍しく初枝が暗い顔をした。

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「何年ぶりだろう」
由美子は感慨深くあたりを見回した。
お寺の境内に入ると、木の匂いに包まれる。
お寺の周囲も緑ばかりの田舎町なのに、ここは空気が違っていた。
思い出の中では怖いほどの大木だった木々たちは、今は親しみやすく穏やかな雰囲気で由美子を迎えてくれた。
ひと月ほど前に、亡父の姉である和代が電話をくれた。
父と母が離婚をしてから、父の親戚とはすっかり疎遠になってしまったけれど、この叔母だけは時々連絡をくれた。
由美子の結婚や出産のときも欠かさずお祝いをくれた叔母であった。
3年前に母が亡くなったときも、この叔母だけは葬儀にきてくれた。
叔母は父のお墓にも時々行ってくれているらしい。
「でも、わたしも1年に1度くらいしか行けなくてねえ」
叔母は電話の向こうで申し訳なさそうに言った。
「あんたのお父さん、今年で17回忌なの。由美子ちゃん、そろそろお参りしてやってくれない?」
「子ども達も大きくなったことでしょうから・・」
和代は電話の向こうで口ごもる。
亡くなった母は、再婚した夫に気兼ねをして由美子から父を遠ざけていた。
父が亡くなったときも由美子には知らせなかった。
(お母さんも亡くなったことだし)叔母が心の中でそう言っているように由美子には感じられた。
「ありがとう、叔母さん、考えてみるね」
そう言って電話を切ってから由美子は暫くぼんやりしていた。
実は由美子は両親が離婚してから、1度だけ父のところに行ったことがあった。
母の再婚が決まったときに、とても悲しくてお小遣いをかき集めて汽車に飛び乗った。
汽車の窓から緑の絨毯のように田んぼが広がっていたのを今も覚えている。
元の家まで走って帰った。胸がどきどきする。
家の縁台の前に座っている父が見えた。
「お父さん」駆け寄ろうとした由美子の足が止まった。
まだ昼間なのに父は一升瓶を抱えて酒を飲んでいた。
薄汚れたシャツを着て、裸足に女物の赤いサンダルを履いている。
そのまま、後ずさりして、由美子は駅まで戻ってしまった。
由美子が最後に見た父だった。

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「今日は住職が留守なのよ。連絡くれれば待っていたのに」
住職夫人の初枝は急に訪ねた由美子に驚きながらも
「でも、由美子ちゃんすっかり大人になって」
と、由美子の顔を何度も覗き込む。
「小さいときは、お墓参りにお父さんと来てくれたわね。覚えている?」
(父と犬と散歩に来たのは覚えているけどお墓参りなんて来たかしら?)
そんな由美子の心を読んだように
「おじいちゃんと、おばあちゃんのお墓があるでしょ。小さいときは、よく来てくれていたのよ」と笑う。
(そうか。あれは散歩じゃなくてお墓まいりだったのね。すっかり忘れていたわ)
住職夫人はお茶を入れてくれ、そしてちょっと迷いながら
「お母さんはお亡くなりになったそうね。今は再婚なさったお義父さんと暮らしているの?」
聞きにくいことながら、好奇心だけではなく、母亡き後の由美子を心配しての質問だった。
「わたしが結婚してからは一緒に暮らしてないんですよ。でも、うまくいっています」
義父にはとても可愛がって貰った。幸福な少女時代だったと思う。だからこそ実父のことを恋しく思うこともなかったのだろう。

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「お父さんが体を壊して入院したときに」
初枝は自分の湯のみにも茶を注ぎながら
(これだけは言っておかなくちゃ。それでないとあまりにも一郎さんが可愛そう)
大人気ないと思いながらも初枝は話さないではいられなかった。
酒ばかり飲んで、ろくな栄養も摂っていなかった一郎の体はボロボロになっていた。
姉の和代が時々身の回りの世話をしていたが、気力の衰えは体まで腐っていくようで、和代もなすすべがない。
やっと説得して入院したときには肝硬変がかなり進んでいた。
「真面目で優しいお父さんだったのに、親戚にも友人にも見放されてね。訪ねて行くのは和代さんと、親の代から付き合いのあるわたし達夫婦だけだったの」
病院にお見舞いに行くと、一郎はいつも黙って白い天井を見ていた。でも、ある日、そうあれは病室の窓から満開の桜が見えていた日だったわ。
一郎は珍しくベッドに座って窓から外を見ていた。
初枝が部屋に入って行くと「初枝さん、ほら桜」
そう言って笑った目が少年のようだった。
初枝が窓を見ると、そこは満開の桜だった。
ちょうど一郎のベッドからは、額縁の絵のように桜が見えた。
「あら、ここは特等席だわね」
ベッドの上に散らかったタオルやカーディガンを畳みながら、初枝はそっと一郎の横顔を盗み見た。
今日の一郎は元気な頃に戻ったような明るい顔をして
「同室のみんなは中庭に花見に行ったよ」と笑っている。
初枝もなんとなくほっとして持ってきたリンゴをむき始めた。
「はい、どうぞ」とリンゴを差し出した初枝の目に入ったのは、桜を見つめて涙を流している一郎だった。
膝の上に置かれている拳はブルブル震えている。
「どうしてこんなことになったのだろう」
宗一が亡くなり、得意先の倒産のあおりを受けて工場も潰れ
「辛かった。長年積み上げてきた物をすべて無くした、と思った」
酒で辛さを紛らわす日々が続いた。
「でも、辛いのは女房も同じだった。もっと辛かったかも知れない」
妻に「一緒にいることが辛い。別れましょう」と言われたときに
「俺は初めて女房の辛さがわかったんだ。でも、もう遅かった」
桜の花に酔ったように話し続ける一郎だった。
寺の檀家から「おそろしいおしゃべり婆さんだ」と噂される初枝だったが、さすがに一言も口を挟めない。
初枝はその桜色にそまったような病室をいつまでも忘れることが出来なかった。
初枝から一郎の話しを聞いた後、由美子は父の墓の前に立った。
「お父さん、ごめんね」由美子は墓をなでた。
墓は冷たかった。どんなに由美子を待っていたことだろう。
墓の前に座ると後悔で涙が止まらない。
「お父さん、ごめんなさい」それしか言えない由美子だった。

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どのくらい泣いていただろう。

うずくまったまま立ち上がれない由美子の後ろから
「あのー」と女性の声がした。
振り返ると、由美子より少し若いと思える女性だった。
どことなく生き生きした明るい感じの人だ。
「わたし、森商店の者なんですけど」
森商店。小さいときに父とお寺に来た帰りにアイスやお菓子を買ってもらうのが楽しみだったわ。
なつかしい思い出がやっと由美子を立ち上がらせてくれた。
女性と一言、二言話すうちに由美子の心の波も静まる気がする。
箒とちり取りを持っている女性はどうやらお寺の掃除をしているようだ。
住職夫妻同様、ここにも父を守ってくれる人がいる。
由美子は去って行く女性の後姿に手を合わせた。
冬とは思えないような暖かい日が続いた。
聡子はいつもの境内の掃除のあとで、田所家のお墓の前に立った。
今までは何とも思わないお墓だったのに、初枝の話しを聞いてからは通るたびに手を合わせずにはいられない。

こんなちっぽけな田舎の寺のお墓にも、たくさんの人の尊い人生があったのだと、初めてしみじみ思う聡子だった。
義母に代わってのお寺の掃除は聡子が年をとるまで続くかも知れない。

それもまた良いかも。この冬の日差しのように心が暖かくなる聡子であった。(つづく)

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